部分と全体 ―打ち込んだことねえ奴はだめさ―
全体全体って言うけど、俺はある時期「部分」に打ち込んだことねえ奴は駄目と思ってる。
人間、始める時ゃ、どんなもんでも一つ事、部分からになっちまうからね。
娑婆渡ってて感じるのは、世間なるもん(それなりの全体)知った風な顔する奴はたいてい、汗水本気でたらしたことねえクズばかりだった。技術仕事然り、営業仕事然り。なまじ大学出の「団塊」にゃ、なぜかこの手は多かった。
この手の輩の言・批評は、たいてい娑婆のしきたり程度のことを言ってるに過ぎなかった。それが「大人」。笑っちまうけどね。
「部分」から入って、身もだえしながら全体に、全体感じる所に行き着く。こういう奴は稀にいるが、出くわすたびに感動もんだった。
「全体」ってのは、娑婆の習慣でも因習でもしきたりでも常識でもねえ。自分でつかんだ全体だからだ。
真っ当にやってりゃ、嫌でも常識的、道義的事項は生き方に入る。そいつなりの実存、体当たりの人生で。
共鳴共感の中で、それこそ自然につかむもんさ。道学者共関係無しにね。
前野曜子がどっかいいのも、この辺。
一つところで打ち込むのと、納まり切れねえ情念と。それでずっこけたところで、とやかく言う資格は俺にゃねえ。
部分と全体ってのは、面白い。
全体ってのはトータルな自分。自分そのものなのだ。社会・世間に寝そべったまま棺桶に足突っ込む輩にゃ、死ぬまで「部分」にしか見えねえらしいけど。
こいつ感じたことねえ奴にゃ、人の並立、共鳴共感の共和制なんて、永久に理解の外さ。