白洲次郎だっけ −ポンチ絵的諦念の世界―

 白洲次郎ってのが、なぜ持ち上げられるかって?


 耐えてお勤めご苦労様、諦念・朱子学サラリーマンの鏡。


 在り物前提に素直に生きる。自分の周りはこれすべて自然。自然に従う。万古普遍、出来合いのまま。私の人生、ご覧の通り。君、君ならずとも臣、臣たり。摂理の中のわが人生、言い訳致しません。


 実体はまるで不明とかのおっさん、取り上げる。

 
 出所は全部、小林秀雄だべ。据え物斬り、何でも骨董鑑定団の。


 観念もて遊びの文学大学、旧師範系女子大出あたりのインテリ、プチブル叔母さん達が今でも喜んで読むだろ。小林秀雄。その焼き直しおばさん・白洲正子なんかも。


 経験要らねえからね。脳内世界の興奮、刺激だけで。


 静的世界のエリート、鏡。


 論語朱子学なんて、今時まじめに読む奴ぁいねえだろけど、メンタリティーの問題さ。この種の好み、憧憬は。


 こんなもんが今でも通用するってのは、東京・首都圏・中央が、その裏返しの痴呆―じゃない地方が、今でも封建サラリーマンの尾引きずる構造、摂理、「自然」の差別の世界だからさ。無論、そこから湧き出る利権を担保したところのね。


 国営放送好みさ。何んかの上で、憂いて嘆いて説教して。社会のモデル、優等生探してね。