人間の地べた (その二)  変革すべきは我にありさ  

 人間の地べたってのは、土に生きなきゃ得られねえなんて話じゃねえさ。


 自分の感性に、無意識が核の自分に素直にってことさ。


 この世に生まれて、生きて死ぬ。愛憎混沌の世界を経ながら。


 内に仕組まれた生命力を、自分なりに燃やし尽くして死ぬってことさ。願わくは。


 別に新しい話じゃねえさ。古今東西普遍で不変の代物、人の人生・人の暮らし。それに素直に。それが暮らしの核心だ。


 人ってのは、子を産み育て死んで行く。そのトータルな場として、家庭を持つ。その遂行が暮らしだ。互いに異質な男と女が築く世界。


 人類が類として存在存続するならば、いやでもこれが核になる。それは、どの生命にも組み込まれた存在様式だ。バリエーションは様々だが。


 俺は統治主義、原理主義じゃねえから、ねばならねえと言ってるんじゃねえ。一人ひとりが、自発自力でたどるもんさ。


 この種の世界に行き着かねえまま、挫折する者はいる。俺は何も言わねえ。言う資格もねえ。様々なもん背負い込んじまった人間の、実存の果てなら。それ追っかけた果てなら。


 何んかの上に乗っかっちゃ駄目ってのは、このことさ。擬制の地べたになんかね。地獄の虚無を味わうことになるにしてもだ。


 本物の人間の地べたに根ざさねえと、人は駄目だ。まともに女(男)も愛せねえからだ。暮らしが駄目になるからだ。人が、次代が育たねえからだ。二世三世、馬鹿殿様、父っちゃん坊やのぼんくらじゃ駄目なのだ。


 自己否定は男の使命だ。自分に対しての、実存に対しての。


 ごっこの中じゃねえ。実生活の中で敢行。これが大事だ。


 自然に帰れのルソーだって、同じ気持ちだったに決まってるさ。


 取って付けた知性の裏づけなんざ要らねえ。直観のもんだ。無意識、感性に根ざすところの。


 共和制は必然だ。共鳴が絆の人の並立に、真の連帯に向かうために。


 虚構の、嘘っぱちの外套脱ぎ捨てなきゃ駄目に決まってるさ。


 起て万国の、魂・肉体汗流す真正の労働者。金玉付きの男どもよ。