共同・協同・協働と自由と自立

 「自由のかっこよさに惹かれ、伝統伝来の共同性を否定したことに今の五十代、六十代の問題があります」


 ある場での、四十代か五十代初めのおばちゃんの言。


 えらい粗雑な言い方だが、他人にゃ色んな思いがあるだろうから分析しねえ。


 団塊なる者達のこと言ってるんだとすりゃ、経験的に思い当たることはあるってぐらいだ。


 俺が思い当たるのは、「団塊」とその十一、二歳上ぐらいまで。何んかの上に載っかったまま「自由」に生きた、口先・食い逃げ世代。共同性なんかあるわきゃなかった。人と人の生身の関係だからね。ほんまもんの共同性は。


 おばちゃんの粗雑さや胡散臭さ責めたって、何んにも始まらねえ。


 大事なのは、言った気持ちくみ取っといて、こっちの思い言うことだ。利権欲望糊塗する権力志向にゃ、この限りじゃねえが。


 伝統伝来の共同性ってのは古今東西、暮らしに根ざした人の思いが生み出す、社会の、人間関係の属性だ。社会の仕組みの属性じゃねえってことは、はっきり言っとくぜ。どんなに見分けにくくてもね。


 それは自分の心に、感性や無意識に対し嘘のねえ人生が、真っ当な暮らしや労働がつちかう、人の思いや情なのだ。共同性の淵源は常にそこだ。経験的にもそこだった。


 自分の感性や無意識に嘘つくな。情念情熱と似て非なる上っ面の競争心に(競争心は例外なく上っ面だけどね)、仕組みが生み出す上昇志向に自分載っけるな。どんなにいばらの道になってもだ。


 こいつが総てだ。共同・協同・協働と、人の心の自由と自立。自分なりにつかみ取るには。


 おばちゃんが言いてえのは本来、これなんだろう。安易に擬制とつるんじゃうけどね。たいがい。



(追伸)


 めざした「自由」の実態が生身の関係干からびた虚栄虚妄に過ぎなかったのは、おばちゃんの言う通りだが、思考回路断線のまま棺おけに片足突っ込む食い逃げ・口先世代のことは、もうどうでもいいさ。