本質開示としての護憲
このところ忙しい。
他人がぼけかましてる間に稼ぐのが、自営さ。
憲法記念日なので一言。
「世襲の天皇が真っ先に出てて、何が民主憲法なの」(住井すゑ)
これに尽きてると、俺は思ってる。
だからってツバする気はねえさ。別の神様持ってきて知の優越だけひけらかし、その後は豚のごとく眠りこけた糞左翼、インテリ共みたいにはね。
九条九条と、うわ言みたいに唱える奴らはあほかだ。
あほはあほとして、本質は思う。戦後の妥協の産物の憲法のね。
主体は誰か。こいつは明確に言ってる。
それ肉体化して表すこと。これが真の護憲さ。
護持された国体に換えて、人民の肉体を。魂を。
「そうだ。おらもそう思う」と、草の田舎の百姓達。
天は人の上に人を作らず―。こいつを頭じゃねえ、体で感じた130年前の人民庶民の思いを、自前で実現しなきゃ駄目さ。
共鳴共感、暮らしの人情が絆。人の並立の共和制。
こいつ書き込まなきゃ、画龍点睛を欠くだ。
人の並立・人民民主の共和制。この本質は温かさだ。冷徹な法則性の経済、政治の中でもね。
それが暮らしさ。暮らしの本質、人の本質さ。て言うか、これに賭けるしかねえのさ。ヒトが、人類が、類として存続するにはね。
宗教はすべてこれの擬制、擬態、みせかけだ。だから逆立ちするのさ。教祖による、国家による抱擁みたいな話にね。
宗教改革ってのは、逆立ち状態の反転さ。人の心の地動説さ。
責任と権利主体の明確化、温かさの淵源の明確化。
こいつがこの国の宗教改革、この国の護憲だ。肝心な箇所の書き換えによる、人の平和の憲法の本質開示だ。
共鳴共感、暮らしの人情、人の並立の共和制万歳。一人ひとりの暮らしに依拠したインターナショナリズム万歳。
どんなに矛盾をはらんでても、こいつが共和の本質さ。腹に収めて生きるってのは、こういう生き方さ。男と女の矛盾を。親と子の矛盾を。人と他人の矛盾をね。
これが人間のふところ、男のふところさ。
こいつを顕在化させねえ限り駄目だぜ、この国は。
武士という名の封建サラリーマン=えせの男にあこがれてたんじゃ、永久に勝てねえぜ。「ドラえもんのジャイアン」とかのアメリカにだって。ヒトとして、男としてね。
(追伸)
俺は男だ。女のことは知らねえ。ヒトとしての男を書く。