偏差値頭脳のよい子報道と若旦那国家

 小沢が辞めるてえと、国営放送、旭日旗新聞のネット記事…、こぞって欺瞞性とやら言い立てる。

 辞めたら辞めた欺瞞性、「悪いこと」説明しねえ欺瞞性。

 ひょっとこ首相府の広報、宣伝マンにしか見えねえけどね。

 国営なんざ、相も変わらず安全地帯の無辜の民、素朴装う「庶民」サラリーマン共のインタビューだけつないで作ったんじゃねえかな。

 インタビューなんて、記者―ってえよりも脳味噌でれでれデレデレクターの思い込みに合わせてしゃべってくれる、「庶民」の声しか使わねえさ。投書欄と一緒。載せられてえ、載せてえ者同士のあうんの八百長世界。

 この手の芸は、時代の空気―その場その場の損得打算―だけで動ける者同士の、それこそ欺瞞の合作。

 あるいは、この手の小商人根性以前の「ボクちゃん優秀、頭いい」病のなせる業かもね。

 「記者なんてのは3Kで、この頃やり手がいません」なんて、さっさと辞めた会社方面からご注進してくれた奴がいたのは、もう15年ほど前。

 そうでもねえさ。今でも出くわすのは、あんた何様ってな輩ばかり。「ぼくちゃん(あたし)優秀」って顔に書いてある。書いてあるだけじゃねえ、口に態度に平気で出す。ゲストを猿回しの猿にして、権威に寄り添い得々しゃべる国営のアナウンサー見りゃ、よく分かるべ。

 相も変わらずアタマいい記者の質がさらに劣化したとすりゃ、汗流す者への後ろめたさすら消えたとこにあるんじゃねえかな。(嫌なことは下請け孫請け。3K避ける職場「改善」等々の結果でね。)

 後ろめたさなんて、ほんとは良くねえんだけどね。良くねえんだけど、偏差値基準の優秀者=「国家の中堅」ばかり仕立てたがるこの国の教育と社会(官僚的上昇構造)のゆがみから嫌でも生じる、人間の本性に由来するもんだと俺は思ってる。後ろめたさって奴は。

 考えてみろや。娑婆にとどまり汗流し、人間の体感と結んで作るものってのには、金や権威の交換価値以前のもんが、どこか必ず嫌でも備わる。そこには仕組みや仕組み由来の観念・思い込みを超えたもんが、レディーメイドの世界をどこか超えたもんが、必ずくっ付いてる。

 人間、餅は餅屋。このことほんとに感じて生きてりゃ、後ろめたさなんて生じねえさ。だがこの国じゃ、人の心をこの手の真っ当さに行き着かせねえ仕組みが、行き着いても見て見ぬふりさせる仕組みが、損得打算、既得権とつるむ形で厳としてある。こいつは俺の人生の実感だ。

 真っ当なインテリ達は、いっ時出来心で上昇しちゃったインテリ達は、だから嫌でも後ろめたさを持つさ。ほんとはね。体感、体当たりで働いて生きる者達に。人は人、俺は俺、餅は餅屋っていうには、あまりに不当に持ち上げられてる自分に、自分の意識構造に嫌でも気が付くことはあるからだ。こいつが真っ当な知性だろうと、俺は思ってる。

 こういうもんが消えちまったんじゃねえかな。人を他人を自分を見つける契機としての、後ろめたさが。

 権力に、既得権にすう〜っと寄り添う。寄り添う自分の軽さに、おかしさに気が付かねえ。気が付かねえふりをする。慇懃無礼に事を処理し、言われたことだけやってさっさと家に帰る。虚構に、虚構の実入りの上に載っかる家庭家族のもとに。

 敗戦後、太宰治は『家庭の幸福』とかの小説で、虚構の上に平然と寝そべる東京人の姿をこう描いた。

 今は、一億総東京人なのかも知れねえな。ちんころロマスコミに限らず。

 小沢がいいとは言わねえ。小沢は、小沢が師と仰ぐ雪国親父じゃない、どこかプーチン似だ。

 だが官僚的なよい子の仕組みの外じゃ、真っ当にもの作るのが、金稼ぐのが、暮らしてくのがどれほど大変か。(身ぃ入れてもの作りゃ、この構造の外へ嫌でも出るかはじき出されるかだ。)このこと全然感じねえ神経は、「規則だから、言われたからやりました」の陰に隠れ、出来合い構造の既得権強化にのみ励むぼくちゃん国家・若旦那国家の走狗にしかなり得ねえのは、至極当然の成り行きだ。

 ※時間切れ。もうやめる。共鳴共感、人の並立、人民民主の共和制万歳。