魂の置き場

 ある所で岡林信康のことを書いてた。『♪山谷ブルース』。

 一口に言って傍観者の歌ということだろう。言いたかったのは。『♪釜ヶ崎人情』との違い。

 岡林が実際に山谷に住んだことがあるかどうかは、あんまり関係ねえ気がする。『♪釜ヶ崎…』のもず唱平が実際「釜」に住んだかどうかなんて、多分どうでもいいのと同様に。自分の精神、魂の置き場の問題なのだ。

 昔大阪にいた頃、岡林ファンというのが何人かいた。なぜだかプチブル臭ぷんぷんの者達ばかりだった。家は案外ええとこの出、斜に構えた反抗。せっせと汗流す俺を体制側と馬鹿にした。この手の者達との接点は、即座に消えた。俺がそこを辞めると。この手の者達が今も懐かしがるのは、岡林の歌だろう。

 岡林は多分まじめな男だ。だが岡林のけつ追っかけたこの手の者達を、俺ははっきりと言う。ふまじめな奴ら。人生に。

 まじめだったら傍観者じゃねえということはねえ。だが傍観者の自分を責める辛さは持ち合わせる。岡林がそうだったはずだ。今どこでどうしてるのか、知らねえが。

 田舎に帰った俺が出くわしたのは、全部が全部「岡林ファン」ばかりだった気がする。何んかの上で嘲笑。自分棚に上げて社会批判。同じことなのだ。これがこの世の左翼、市民、マスコミ共の大半―てよりほとんど全部だったと俺は思ってる。

 こいつらの基盤叩き壊せ。陰湿ねちねち嫌味言い、宦官権力狡猾に行使してきても。

 その果ては? それぞれの孤独、それぞれの居場所に生きる釜ヶ崎

 精神、魂はそれでいいと俺は思っている。上も下も仕組みもねえ。あるのはお天道様と青天井。それでいいのだ。魂は。


 共鳴共感、義理人情、人の並立、人民民主の共和制万歳。