田舎の大阪

 俺の実感じゃ、かつて大阪は田舎だった。どこにもある田舎と同じ地の田舎。あるのは、お天道様と青天井。

 俺が大阪に行ったのは、万博のちょいあとだった。地の大阪男がぽつり言ったのは、よく覚えてる。「大阪は変わったで…。万博で」。

 大阪は万博で東京に。分かり易く言や、仕切られるようになった。組織的なもので。二次加工されたもので。観念で。

 普通の田舎は、中央なるもんに簡単にいてこまされる。いてこまされるのを上昇にすり替えるのが、普通の田舎と田舎もん。たちまちただの場末になる。中央外延の。風景も魂も。

 永らくそうならなかったんが大阪の、とりわけ町場だった。釜界隈含むところの。匂いでそれは感じた。

 俺がいた頃、地の大阪人達はぼ〜っとしてた。はやりや観念に対して。もうちょい分かりやすく言や、セオリーなんて無かった。感じねえもんは、何見せられてもそ〜でっか〜。感じるもんはセオリー無しに取り込む。ヘンな話、宝塚の姉ちゃんのど派手は服と、ドヤの市場で買った大昔の古着、平気で一緒に着込むようなもんだった。

 そういう大阪と変わる大阪。こいつは嫌でも実感した。そこにいた七年の間。東京とどこが変わるんかいという風に、人間達はなって行った。

 その頃は地の大阪が変わったってより、よそから来た者達に変えられたという方が実態だったろう。転勤就職etc.の組織人達に。町場の衰退と共に。

 オイルショック(第一次)からは、都落ちなど断固拒否のはずの東京人の子弟なんかも平気だ流れ込んで来るようになった。馴染めねえでノイローゼ。東京Uターンなんて奴はまだたまにいたが、おおむね平気でかっ歩できる場になって行った。組織社会はとりわけ。

 田舎は衰退すると場末になる。大阪ももう場末に。そんな嘆きを風の便りに聞くことはある。たまに触れて実感することは多々ある。

 嘆くこたぁねえさ。今も居る町場の友よ。あんたも気付いてるはずだ。セオリー仕組みの外に。こんなことは土地柄や時代になんか委ねねえで、自分でやるだけ生きるだけの話と。1960〜70年。この頃をくぐった者ならば、馬鹿でも気付く実感話と俺は思う。ほんとなら。


 共鳴共感、義理人情、人の並立、人民民主の共和制万歳。


(付記)
 1945年。その頃ちゃんとほじりゃよく分かる。潜在顕在、大半の者が感じたと。積み残しの宿題みてえなもんさ。