子は親の下請け

 メジャーで捕手やってたもんが帰って来るとか。

 事情は知らねえが、一つ思うことはある。二、三年前だったか、今はエースの中米出身だかの若けえピッチャーが、猛り狂ってベンチにグローブ投げつけたことがあった。投げた球、ホームランされた後で。

 アナや解説は何も言わんかったが、捕手のサインに腹立てたんじゃねえかと感じた。打たれた球は、俺の記憶じゃ高めの変化球。ストレート投げたかったんじゃねえかな。

 日本の若手ピッチャーなら、自分責めるべ。本音かどうかは別に。先輩のサインに応えられなかった自分。高めに入れちまった未熟。

 人の力の引き出し方って奴はある。相手のリズムや波長、感性に沿って引き出すか、ある鋳型パスした奴だけ相手にするか。

 この国の娑婆は全部が全部、後者だろうと思ってる。猛り狂う牛、去勢しといて仕込む。これが権威主義、組織社会の「育成」ノウハウ。指導者という虚構が頂点、減点法の家父長制社会。高校野球のベース作った明治の師範学校野球は、意図してこのスタイル採った。野茂なんか、これ嫌であっちへ行ったんだろと俺は思ってる。

 捕手は九州人。風土気質は、あるだろなと思う。先日たまたま九州の出で、田舎住まいの男の話聴いた。親の恩だの先人の恩だの、嫌ってほど口にする。「和のために、一致団結のために」。聴いててなぜか熊本人・麻原彰晃思い出した。ねちっこい口調含めて。関係はまるでねえが。

 子なるもん育ててえなら、黙って背中見せる以外手はねえと俺は思ってる。子としての経験から。親としての経験反省から。子供ってのは、ほっといても親慕うもんだ。そこで要るのは、一にも二にも親の生き方。口で言うのは助言程度。子の感性に沿うところで。

 何度も言うがメイド・イン・九州、この国の二世や保守が垂涎の「教育勅語」なるもんは、親慕う子の心理突く代物以外の何ものでも無えと思ってる。寄って来る子に、寄り付いてくる子だけに向かい、おうそうか、じゃああれやれ、これやれ。組織社会、縦社会維持の封建道徳。ばか正直・素直な餓鬼は自分責める。ずるい餓鬼は面従腹背、二枚舌に。軍隊暮らしで身に付くのは、たいてい後者。

 捕手が、何求めて帰って来るのかは知らねえ。出来るところでやりゃいい。だが「一致団結」「ほんわか温ったか」のこの国の道徳・秩序は、猛烈なエゴ・冷酷・搾取・排他性を下部構造に隠してる。この程度の自覚は持った方がいいぜ。カオで野球やるだの何んだのに舞い戻る前に。

 共鳴共感、人の並立―。ダテや酔狂で言ってるわけじゃねえさ。


(付記)
 共和制ってのは人間一人ひとり、芯が強くねえと多分成り立たねえ。芯が弱けりゃ? 何やったって成り立たねえ。