共和制の魂 ―上っ面と身体性―

 昔、メルロー・ポンティっての読んだ。ほとんど忘れちまったけど。田舎へ舞い戻り、家が狭くて実家に預けといた本は親父の死後、金の亡者体裁の亡者、イエつまみ食いの長男なる男に全部捨てられた。

 サルトルの観念性に対抗するってな言い方されてたが、対抗したかどうかは知らねえが、感覚的にゃよく分かる。

 大まかに言や、アタマ(上っ面の言葉)じゃねえ身体が、体感が大事って話だった。身体図式だったか。

 娑婆に実社会に出て、それでも意味持つ本。それは全部が全部この手だった。体感に訴えるもの。

 勘違いしちゃいけねえのは、身体体感は経験や伝統歴史のひけらかしと違うってこと。馬鹿は何万年生きたって、体感なんざありゃしねえ。権威とつるむエセ自然、こわもて売りのずるシャモやぱ〜な長老居並ぶだけの、万世不易の天皇制見りゃよく分かる。古いってだけじゃひたすら苔生しカビ生え、ぱさぱさに干からびるだけ。体にウソつくエセ構造があるからさ。個人にも集団にも。

 早い話がそん時そん時、ほんまもんの体感実存で生きろってこと。観念、アタマ、口先じゃねえ首から下の、体で感じるほんまもんの自分見っけて。汗流せってこと。自分で。

 「知」なるもんもそうなりゃ意味持つ。鼻効くようになるからだ。自前の体から絞ったもんと、エピゴーネン、エセの区分けがつくようになる。絵に描いた餅やぱさぱさの神学脱して地動説。自然科学の態度も社会・人文科学の態度も、職人工員百姓の人生も、まるで一緒。真っ当なもんは。

 体に素直に生きること。感性の呼びかけに応えること。上っ面の打算捨てて。迎合捨てて。安手のプライド捨てて。けちな反発反体制(エセ左翼)捨てて。そうすりゃ嫌でも行き着くさ。反体制に。

 世の中、豚に真珠も事実だけど、感じる奴は感じる。ほんまもん作ってりゃ。それでいいのだ。数じゃねえ。ほんまもんが大事。上っ面の言葉の右ひだり、先進性なんざ糞食らえ。自分振り返る。自分掘り下げる。この種の気持ちが、その共鳴が大事なのだ。

 ほんまもんの自分に素直に。こいつが真の変革の源なのだ。自分も確かにその一部の、命の起源に根ざすところの。魂に錨(いかり)下ろすってこと。人生のそん時そん時。


 毎度おなじみ、同じ曲。山崎ハコ

 http://www.youtube.com/watch?v=gvpNFLtzxR4