疎外・空しさと変革

 青年マルクスが言った労働疎外。

 観念的だの青臭いだの批判されたけど、真っ当に働くものの心の働きとしちゃリアルな言い方だ。

 本気で働きゃ分かるさ。汗して働きゃ分かるさ。身ぃ入れて、打ち込んでみりゃ分かるさ。

 いかに生産物が結果が、打ち込んだものとは違う空しさの中にあるか。働いた自分自身が、よそよそしい、空ろな、物心共にろくに人を支えねえ空間と社会の中にあるか。

 疑問は怒りはここから生まれる。ズルじゃねえ、さぼりじゃねえ、仕事に自分に忠実に働く中から。疎外を空しさを、欠落を乗り越えようという意識無意識の心の働きが、否応なくそこに生まれるからだ。部分の仕事やらされてても、パートタイムのおばちゃんに過ぎなくても。真っ当に、身ぃ入れて、体で心で感じてやってれば。

 赤旗のたぐい振るのは早とちりだが、文句は言わねえ。一先ずその道もあるさ。どっちみち不完全な娑婆じゃ。だが自分が感じた疎外の意味、空しさの意味、欠乏欠如の感覚…、これらを徹底的に自分の手で心で突き詰めるにゃ、自分の道進むしかねえことはある。時には阿呆臭い搾取の場で、貧乏くじの孤立と孤独の場で。腹立っても、はらわた煮えくり返っても続けるしかねえことはある。

 社会科学の発見、町工場の親父の新技術の工夫発見、百姓爺いの新農法新作物作り、新たな商法の開発、あるいは胸打つ作品の創造、地に足付けた改革理論の創出…。これらは全部、なんかヘンだな、なんか足りねえな、なんか腹が立つな、おかしいなの、疎外欠落感じる心から生まれると思ってる。打ち込んで働き続ける中で絶えず湧き出る疎外、欠落、渇望の感覚から。恐らくは純自然科学的な発見さえも。

 基本はいつも真っ当に働くこと、働き続けることだ。相当馬鹿ばかしくても。怒りを、欠落感を、渇望を、安易に何んかに預けねえ方がいい。はた目には体制的に見えようと。早とちりの者達があれこれはやし立てようと。自分の感性、肉体、魂を信じて。孤立孤独を恐れずに。あんたの疎外感が、欠落欠乏が、そこに生まれる渇望が自分の汗に魂に真に根ざしてりゃ大丈夫、小児病にもしたり顔の組織人のたぐいにも、死んでも陥らねえさ。上っ面の連帯じゃねえ、真の共鳴共感と、人の情と出会うだろうさ。