共和制の魂 その八  ―人生いろいろ―

 サラリーマン辞めて30年。当時振り返りゃ、反省することは多々ある。

 改めて思うのは、俺にゃサラリーマンは絶対に勤まらねえなということ。社会の何たるかを否応無く知り、ヒトの何たるかを否応無く味わい、色んなこと散々体験してきた今も。体験したからこそ、当時を反省したからこそ、更に勤まらなくなってるとはっきりと思う。

 自分の世界を持つ。難しい話じゃねえ。自分の感じたものを、意思を意欲を実現すること。そうするべく生きること。それだけ。使われるなんて性根は、嫌でも消えて無くなる。

 組織の中で実現する? 組織と人の絆は違うさ。この手の絆に関わることは、組織の中、とりわけこの国と社会の組織の中じゃ絶対無理。共鳴共感や真っ当な人情は、組織の中にゃ絶対に存在しねえ。し得ねえ。胸に手ぇ当ててみな。人の思いや意欲の源。こいつは絶対に、人間ダシにするとこからは始まっちゃいねえ。

 組織社会はそれなりに厳しい。組織の法則に従って生きる者達の修羅場。修羅場? 自立できねえ、する気ねえクズ達の。宦官達の競い合い。競い合うのが嫌なら、みんなそろって三すくみ、何んにもしねえ無気力がはびこるだけ。どっちにしろ、意欲は間違いなく排除される。

 はっきりと自覚することだ。偏差値由来、明治手製、官僚仕様の縦社会じゃ、真っ当なヒトの意欲は絶対に救われねえということを。人間様の頭押さえつける減点法じゃ、人は魂は絶対に膨らまねえってことを。

 会社興すのが善だとは、全然思わねえ。だがそうすることが意思実現の一手法という認識がまるで希薄なこの国、この社会は、異常としか言いようがねえ。

 人を社会を嘆く前に、自分の生き方をする。当たり前のこと。だが一方で、障壁は取り除かなきゃ駄目ってことはある。いまだに意識無意識の儒学仕様、宦官仕様、封建サラリーマン仕様。こいつ命のこの国と社会、人間共の精神構造を。

 蛇足の付け加え。何んか崇めて生きてえ奴はそうしな。官僚仕様で生きてえ奴はそうしな。だが「多様」忘れちゃいけねえぜ。人の生き方は人の数だけ。こいつを。くだらねえ情緒や観念にあぐらかき、あいも変わらず多様を排除。この手の仕組み、精神構造は絶対に排除しなきゃいけねえってことを。