体で描く 体で書く

「体で覚えなあかんで」。ムービーのカメラ屋になり立ての頃、よく言われた。

 当時は当然絞りもピントもマニュアル。望遠、標準、広角の三本の単眼レンズ回転させて使う、丈夫が取り得の米国製戦地カメラ。「ズームなんか使うな。アップで撮りてえ時はてめえの体で動いて寄れ」。こうも言われた。今でもスチール写真なんかも、人の鼻先で撮る癖が抜けねえ。

 体で覚える、感じるってのはメカだけじゃねえ。こいつは長年人間やっててはっきりと分かる。一箇所にぼけっと突っ立って頭で構成、アップも何もズームでちょいちょいじゃ絶対に駄目ってこと。近くに寄りたきゃ、てめえの足で近に寄って見る、感じる。その都度場所変えアングル変えて、変化付けて被写体撮る。きっちり腹すえて関わって、いろんな表情引き出す。

 記述の取材、文作りなんかもまるでそうだった。ありきたりに聴こえても腹据えて話聴く。くだらねえとその場思っても、きっちりメモ取る。通り一遍に見えても、じっくり自分の目と頭で、納得するまで資料読みこなす。そうすりゃぼ〜浮かんで来る。相手の言たかったことが。カビ臭せえ文字に込められたものが。ありきたりの言葉の連鎖、文脈の中に。

 発見ってのは、こういうもんだと思ってる。「ありきたり」の全体をぼ〜っと感じる。感じた気持ちでつないでみる。するとそいつなりの背景、時にゃそれまで見えなかった時代みたいなもんも浮かんでくる。個々の事実の受け止め方は当然変わる。拾えなかった事実も拾えるようになる。

 浮かんだイメージ、疑問点。こいつを確かめ晴らす追加取材。聴いたり本借り調べたり、資料ほじくり直したり。やっぱりそうか、ああなるほど…。こうして全体つかんだ時ほど嬉しいことはねえ。大概大足出る仕事になっちまってたが。原稿のます目埋める金しかくれねえからね。どこも。

 それでも良かった。ほんとに良く書いてくた。相手が言ってくれる時きゃ、とりわけ。そりゃうれしいさ。ゴマすって書いたわけじゃねえからね。ばくちだからね。見せるまでは。

 ほんとのこと書き過ぎて本にゃできなかったのも含めて、当事者が見て見当外れ。こいつは無かったと思ってる。

 体で感じる。こいつは何より大事なのだ。てめえ自身、体で生きてできること。偉そうに言う気はねえが。往々不幸、馬鹿んされる生き方。

 人生不完全だが、軸は外さなかったと思ってる。嫁さん子供、泣かしたけど。子の人生歪めたとこはあるけど。

 それでも良かった。嫁さん子供の漬物石、首からぶら下がってて。真っ当にもの感じるにゃ、トータルに人感じるにゃ、この重たさは絶対不可欠とはっきりと思う。今は。


 共鳴共感、義理人情、人の並立、人民民主の共和制万歳。一人ひとりに根ざしたインターナショナリズム万歳。