組織的近代主義とたぶらかしの道義

 小沢一郎を批判追及する立花隆(または検察)見て思い出した。大内兵衛っていう講壇社会主義者

 小児病のエキジビション=東大紛争真っ只中の頃、「東大は滅ぼしてはならない」という雑文を『世界』というアタマの雑誌に書いた。

 三島由紀夫が当時、「大内さんが佐藤首相なんかと会って話をするのは、どっちも同じ近代主義者だからだ」という意味のこと言ったのは、まるで正しい。理論ってよりニンゲン様の嗅覚として。

 近代主義者ってのは、目的合理主義者だ。ある種の体系、記号、理念、価値観の上に自分を重ねるところの。官僚頭脳ってこと。意識、脳みその構造が。サラリーマン頭脳と言ったっていい。組織的なもんに信を置き、人にゃ信は置かねえ。トータルに人は絶対に見れねえ。感じられねえ。感じても逃げる。

 こいつはこの国の駄目さと根深けえとこでつながってると、六十年の人生ではっきりと思う。

 三島にしたところで、近代主義者のアタマとそうじゃねえ自分の谷間に落ち込み、この国伝来の虚構―自然でもねえもん人の自然に見せる―とつるんで、解決になんかなりっこねえ馬鹿やったあげく、ろくでもねえ死に方した。

 人の心と社会に巣食うこの手の嘘の構造ズバッと切り裂かねえ限り、真っ当な地動説やルネサンスのたぐいは、この国と社会にゃ永遠に来ねえ。

 教養リベラルのたぐいは生身の土壇場じゃ必ず逃げる、差別の側に回るってのは、組織(的なもの)に信を置いて人にゃ信を置かねえ―こいつによる。世襲ぱ〜でんねんの二世三世、権力主義者共が虚構の自然持ち出し、道徳だの道義だの国柄だの言い出すのも、進歩が売りの善人共の心のからっぽと対。上っ面の近代化と麻原彰晃的暗愚たぶらかしで出来た帝国明治は、この手の馬鹿と阿呆のつるみ合いの結果だった。

 何度だって繰り返すさ。同んなじこと。毎度打算と手ぇ握るこの手の嘘、上っ面がはびこる限りはね。


 共鳴共感、疑義人情、人の並立、人民民主の共和制万歳。一人ひとりに根ざしたインターナショナリズム万歳。