人民の魂、人民の海 

 まだ俺が大阪暮らしだった1975、6年頃。

 爆弾かなんかでパクられた学生運動崩れは言ったとか。「人民の海なんて無かった」。ぱ〜新聞が書いただけかも知れねえけど。公安のでっち上げ話を。

 それはそれ。人民の海はあるさ。おめえ自身人民になりゃあね。くだらねえ観念思い込みで娑婆なめるの止め、人見下すの止め、何もんでもねえ自分になりゃ。真っ当に汗かく中で。打ち込む中で。永年の実感さ。俺の。

 労働ってのはこういうもんだと俺は思ってる。真っ当に汗流しゃ、感じたもん大事にして進んで行きゃ、必ず出くわす。ばらさなきゃなんねえ自分に。自分の馬鹿さに。他人の馬鹿さ腹黒さに。時にゃ真っ当さに。どっちも嫌でもあぶり出るさ。感性嗅覚、否応無く身に付く中で。

 この手の感性生き方の総体が人民の海=共鳴共感の海だと俺は思ってる。委ねるのはこいつさ。ヒトがヒトとして生きるんなら。

 気持ち真っ白にして、ぼ〜っとして、頭でヘタに考えねえで進んできゃ、嫌でも見えてくるもんはある。この感覚大事にするのが人民だと俺は思ってる。

 ここからものごと興しゃいいのだ。どの田舎にもけっこういた明治初めの民権親父達も、上っ面、馬鹿右翼の始祖扱いの西郷南洲も、戦後の土建屋、町工場の親父達もみんな同じだったさ。普通のヒトってこと。ヘンな構造ん中、ちょこまか立ち回らねえところの。生身の感性体感で生きたところの。

 ヒトも社会も、こいつが核にならなきゃね。へんなセンセイの説教規則、虚構の構造になんか頭垂れてねえで。

 無理に決まってるさ。腐れ切った有りもんの中じゃ。どんなにばら播いても思い込めても、右往左往しても。腐った家捨て切れねえ善人共は結局ダシになり、馬鹿既得権が再度のさばるだけ。

 またぞろのっそり出てくるさ。善人達が疲れ果てたあと。センセイ面、国家社会の親父面の既得権がね。構造がそうなってるからさ。社会も精神も。

 簡単な話。作り直しゃいいんさ。人民の海、真っ当に映し出すもん。制度も仕組みも理念も国歌も国旗も。人民なるわが身に胸張れるもんに。


 共鳴共感、義理人情、人の並立、人民民主の共和制万歳。一人ひとりに根ざしたインターナショナリズム万歳。