登校拒否とうんこマスコミ

 皇太子の子が登校拒否とか。

 毎度思うけど、もう解放してくれとこの一家は言ってるんじゃねえんかな。

 檻ん中に閉じ込められてるのは、「しいたげられてる人々」だけじゃねえさ。

 千年来だか続く虚構必要とする馬鹿は、今もいる。しいたげようがしいたげられようが。

 中上健次とかいう作家がいた。死ぬ少し前だったか、「差別された俺の祖父(親父だったかな)でさえ尊皇だった」とか。あほかこいつと思った。

 それがどうしたの。要は構造の問題だべ。そんな言い方・力み方する性根自体が問題さ。

 差別被差別、一転すりゃ差別。構造抜けだせねえ精神、脳みそ。


 体感・実感、意識無意識、どれも自分が軸。エゴでもなんでもねえ。ヒトは生物は元々そんなもん。

 そんな腹づもりも自覚もねえところに、ケチなそろばんずくの上に、センセイの顔色窺う偏差値・幼稚園社会は成り立つ。

 便利だもんね。お墨付きもらえば。威張るのも当然、高給食むのも当然。僕ちゃん達のレーゾンデートル。うんこマスコミまさにそれ。差別もしたさ。されたさ。おいら自身その昔。

 うんこん中じゃ、差別の側も被差別の側もうんこ。身をもってたっぷり実感した。馬鹿と阿呆の絡み合い。それが構造。延々続くうんこマスコミ(有象無象のインテリ、市民、サラリーマン共)の精神、性根の淵源。

 形骸化した制度仕組みん中じゃ、お子ちゃま達も苦しむさ。「暴れた」方もちびった方も。真っ当な親なら反省するさ。あほなストレスの源。

 飛んだり跳ねたり喚いたり。当事者の、人の迷惑顧みず、お体裁垂れ流すうんこマスコミ。

 損得打算。構造抜け出す気なんざ更に無く、社会世の中かき回すだけ。思考停止は当然さ。