可能性の勧め

 自分信じる。自分見捨てねえ。

 人間、これほど大事なものはねえってのが、長年生きて来た俺の実感だ。

 少し前だが、学歴は所得に比例するってのが結構大きなニュースになった。

 無批判に取り上げる「高学歴」記者共の性根を感じ、あほかいなと思いつつ、そうなっちまってる現状は確かにあるなと感じてる。

 俺は、無学歴がいいなんて思っちゃいねえ。人の数だけあるヒトの多様性、可能性。こいつ閉ざしてそんなもんのケツだけ追っかけるな。科挙仕立ての幻想虚構に乗っかるな。こいつは口酸っぱくして言ってきた。

 真っ当な知的興味、好奇心、打ち込んだら止まらねえ熱中集中。こいつを否定する気はこれっぽっちもねえ。そいつを磨く堀り下げる、そのいっ時のプロセスの一つ、選択肢の一つに高校大学があるってのは当然だ。智恵磨くためのヒント、参考、指標ぐらいは得られる。

 俺とても、大学生活は役立ったと思ってる。当時の普通の学生並みってことだが、本の山に埋もれて暮らしたり、取らなくていい他学部の講座とったり。決して無駄にゃなっちゃいねえ。

 人間の感性、経験、生き方が匂う本なんかは、とりわけ面白かった。人文、社会科学だろうが自然科学だろうが、それは変わらなかった。解釈の学じゃねえ創造の学。その手のベースにゃ、必ずこの匂いがした。体当たりで、体で、感性で、自前の意思で突き進んだ者達の痕跡。この手の本は学校さぼってでも徹夜してでも、何べんでも読んだ。貧乏学生の懐絞り、出し惜しみせずに買って。

 熱中し打ち込む心の状態、心の様。この様は、貧乏人だろうが金持ちだろうがちっとも変わらねえ。人間が、人の力が伸びるってのは、この心の状態を人が持てるかどうかにかかってると俺は思ってる。学問・研究だろうが技術・職人技だろうが、スポーツだろうが遊びだろうが、芸術だろうが何だろうが。敗戦後、事業興した者達の多くもそうだったのは、町工場巡って見て来た。

 金の有無が関わるとすりゃ、学校出るだけの金がねえ、暮らしの糧稼ぐのに忙しくて、学んでるヒマがねえってことは当然あるが、貧乏とされてる家でも今の時代かなりの程度、この手のハンディは乗り越えられると思ってる。俺の家の子達は、教師も馬鹿にする貧乏親のハンディ乗り越えて、それなりに学校出た。生活費の大半自分で稼いで。授業料の割り引き申請、嫌な思いしながら出して(子供がね)。塾なんざ行かなかったさ。行けなかったって方が真実に近けえけど。今の時代、人の奥底の情念情熱・可能性引き出す寺子屋なんざ、まず存在しねえ。

 人間、一番大事なのは、自分閉ざさねえことだ。それにリアルなもんと思い込まねえことだ。あかの他人が勝手に作った「馬鹿の壁」のたぐいを。権威、偏差値、頭が「いい」「悪りい」等々のぱ〜な常識に落ち込まねえことだ。人の力なんざ、ほとんどの場合五十歩百歩なのだ。あるいは補う力は必ずある。一つのものが不得手でも。俺の経験じゃ、不得手なるもんの大半は幻想、思い込みだった。

 自分信じる。自分の可能性信じる。それはひがむことでもねえ、反発することでもねえ、見上げることでも、見下ろすことでもねえ。打ち込むことだ。他の何ものでもねえ自分の世界に。そうする中で必ず見えて来るさ。ほんとの軸は自分なのだと。そうする中でほんとに見えてくるさ。何が自分の指標かヒントか参考書かが。打ち込んだ過去の人々との情念情熱の交感の中で。

 学歴は所得になんか比例しねえさ。真っ当な学問の世界じゃ。真っ当な学の世界。そいつは自分が作るのだ。

 毎度お馴染み。共鳴共感、義理人情、人の並立、人民民主の共和制万歳。一人ひとりに根ざしたインターナショナリズム万歳。

(追伸)

 俺は今後、人の可能性開く何んか作ろうと思う。できりゃ飯の糧として。俺と嫁さんの。