上だろうが下だろうが構造の中に居座る奴は駄目

 先日、韓国の野球の話を聞いた。

 選手人口はごくわずかだが、やる奴は学業そっちのけ。そればっかりとか。

 話は受験にも及び、こちらもその手で猛烈に過熱。たいがいはこっちのタイプで、韓国全体でスポーツをする者はごくわずか。運動不足状態だそうな。

 何かに特化して、そいつつかもうと必死。


 どこまで正確な話か知らねえが、日本も基本的にゃ変わらねえなと思った。中国も。

 ある尺度があって、それ基準に必死。這い上がろうと。

 どこもそんなもんだろけど、程度ってやつはある。ていうか、尺度を物神化、崇拝しちまうのか、それはそれ程度でおさめるのか。

 傍から見りゃ似たようなもんでも、根本は違ってくる。自分があるのかどうか。自分の真っ当な世界があるのかどうか。


 俺は日本も中国も韓国も、人も国家も張りぼてって感じがどうにもする。明治維新の頃も今も。

 体裁、外殻、もなかの皮。そればっかり気にすると人は尺度にこだわる。執着、物神化する。

 毎度言う体感、実感、ほんまもんの感性が無えってやつ。あってもそっちに引っ張られる。軸足移す。福沢諭吉みてえに。自分は当然無くなる。周りも自分もトータルに感じる自分が。

 思想だのなんだのエラそうに言うが、すべての元はこいつだと思う。こいつがあるのかどうか。自分の軸にちゃんとなってるかどうか。日常の暮らしのレベルで。

 毎日の暮らしのレベルでこいつ鍛えてなきゃ、身に付きもしねえし、維持もできねえ。自前の感性、体感は。

 中国、日本、韓国、またはモンスーンアジア。農耕民族の習性ってばそれまでだが、直接的にゃ統治の学(宗教)=儒学儒教のメンタリティ。

 こいつ抜け出さねえことにゃにっちもさっちもって感じは、俺にはある。だっていつも、自分じゃねえもんに感情移入しちまうんだもんね。統治の側に。「上」に。国営放送の大河ドラマなんていい例だべ。

 体裁、外殻、もなかの皮、尺度(上昇の仕組み)を物神化しちゃう心理はこの手のメンタリティとイコール。


 スポーツだって何んだって尺度が無きゃ成り立たねえ。尺度は否定しねえ。

 終わったあと、お互いうめえ酒飲めるか。飲まねえまでもあれはあれ、これはこれで済ませられるか。それは損得打算と根深く結び付いた社会の構造、人の心理と直に結んでる。

 一つはっきり言えるのは、もなかの皮社会の変革は、座して待っても永遠に起きねえ。人がまず変わらなきゃ、絶対に始まらねえ。自分から始めなきゃ何んにも起きねえと言った西郷さんは正しい。

 中身持つことさ。自前の体感、感性鍛えることさ。暮らしのレベルでね。

 そうすりゃ上っ面の勝った負けたにゃ、それほどこだわらなくなるさ。へんてこりんなもんに執着しなくなるさ。

 帝国明治がくだらなかったのは、上っ面、もなかの皮の競争心。統治の側に感情移入の。ヘンなとこで張り合えば、ろくでもねえことになるに決まってる。

 その遺産悪習の官民官僚ピラミッド。こいつと対のお受験偏差値ピラミッド。こいつは、解体しなきゃ駄目さ。真っ当な感性や智恵、世に生かすために。

 時間切れ。今日はここまで。毎日腹据えて生きろって話。まずはそこから。それがすべて。


 共鳴共感、義理人情、人の並立、人民民主の共和制万歳。一人ひとりに根ざしたインターナショナリズム万歳。