もの作りはどの世界も一緒

 欲しいのは対症療法、即効性、その場限りの損得。得にならねえと見たら、す〜っといなくなる。

 これがこの三十年、娑婆で俺が普通に出くわした現実。

 本気でもの作ったことのある者達は、おおむね例外だった。

 娑婆全体じゃ、極度に後者が少なくなったってことだろう。

 物ってのは正直だから、この手の性根じゃまともな物は絶対作れねえ。機械ものでも作物でも。この分野じゃ、今も昔もまともな奴は多い。

 決定的に駄目なのは、精神分野のもの作り。特に言葉の世界。

 元々駄目だったもんが権威や虚構の喪失、希薄化で白日の下にさらされたってことはある。文学、社会科学、マスコミのたぐいはこれ。

 問題は駄目文学や駄目学者、駄目マスコミ見て「あ、この程度なの」とやって来た者達が、本気のもの作りのしんどさ(面白さ)はするりと避け、やり口まで真似てそのまんま増殖しちまったこと。

 体に宿る内的法則(良心)でものを作る。これは物質的なもの作りの世界も、精神的なもの作りの世界も少しも変わらねえと俺は思ってる。

 言われたからやりましたの仕事でも「あ、ヘンだな…」、この種のセンサーと結ぶ内的法則を持つ者は、真っ当な結果に行き着くことはできる。経済的、社会的にずっこけることはあっても。

 良心に沿わねえことは出来ねえってのは、直観体感に沿わねえことは出来ねえってのとイコール。この内的法則、メカニズムは、どんなもの作りでも一緒だと経験的に感じてる。

 このメカニズムをするりと避ける者達。それは内的法則を避ける者達、そのしんどさ(面白さ)を避ける者達、社会や他人の顔色の別名の交換価値に軸足を置いた者達。こいつも経験的に明らかだ。

 虚構に載っちゃ駄目ってのは、内的法則が大事ってのは、このことなのだ。

 人も社会も衰退するのは当たりめえなのだ。虚構が、虚構とつるんだ交換価値が幅を利かせてる限り。

 飯食うためにゃ仕方ねえ? 稼ぐに追いつく貧乏はねえ。それやってから言ってみな。


(蛇足)

 貧乏は簡単に追いつくさ。真っ当に汗流す奴にも。だが真っ当に稼ぐ奴は飢え死にはしねえ。お天道様(人民の魂)は、そこまで腐りゃしねえさ。どんな時代も。


 共鳴共感、義理人情、人の並立、人民民主の共和制万歳。一人ひとりに根ざしたインターナショナリズム万歳。