この国の受験制度=科挙学歴制度は官僚頭脳養成制度と見切るべし

 科挙学歴制度は官僚頭脳養成制度と見切るべし。

 当たりめえの話なんだけどね。この当たりめえが見切られねえまま血肉にまで食い込んで、にっちもさっちも行かなくなっちまってるのが、この国と社会だ。

 どんな奴と会っても、はっきりと分かる腹ん中。象徴するのは「トーダイ出は優秀。人品骨柄も」。これがこの国の者達の本音(血肉)。リベラル装う奴(インテリ、市民面etc.)ほど本音はこれってんだから面白れえ。俺(私)は違う? 胸に手ぇ当てて考えてみな。

 これがどれほどどうしょうもねえかは、娑婆を自前の感性で、自分の汗で渡ってみりゃよ〜く分かる。分かる奴は分かる。

 先日またまた出くわした。過疎高齢化でにっちもさっちも行かねえ山ん中。ここも毎度同んなじ性根。息子が戻ってくるわきゃねえさ。娘が相手見つけるわきゃねえさ。

 三十年前、田舎に舞い戻った俺も実はひでえ目に会った。自分を「末端」に貶めてるのは、他ならねえ田舎もん自身だってのは肌身で感じた。親や親族さえ(親や親族だから)魂の敵ってのも実感した。地方なるもんがぺんぺん草なのは、サラリーマン武士由来の明治手製の構図ん中でしか人生見つけられねえ、田舎もん共の身から出たサビと俺は思ってる。

 科挙学歴制度がなぜ駄目かって? 自前の肉体で思考しなくなるからさ。それが官僚頭脳。官僚頭脳は一般の娑婆、家族家庭の中にまで根深く蔓延しちまってるってのが、この国のどうしようもねえ実態だ。お受験ママなんてのは、家庭にまで食い込んじまった官製社会の現代版一風俗。

 官僚頭脳ってのは、与えられた餌や課題の処理の脳みそだ。

 所与の課題の処理。それ自体、悪いわけでもなんでもねえのは当然さ。口先吹くだけで実務は無能なやから(石なげりゃ役職に当たるサラリーマンマスコミの世界なんかにゃ実に多かった)よりも、言われたことでもいいから律儀にこなす奴の方がよっぽどまともだ。大阪時代の俺の盟友達は常に後者だった。今の俺だって仕事の実体は後者だ。

 ここで見誤っちゃならねえは、この国の科挙学歴制度は、実は所与の課題の処理力(実務力)を養う制度ですらねえってこと。言われたことの処理だけ―、このレベルに人の発想や生き方を留まらせる、狡猾な既得権擁護の制度ってことなのだ。

 なぜそうなのかは、科挙学歴の淵源をたどってみればすぐに分かる。「君、君ならずとも臣、臣たれ」。こいつに根ざした朱子学(封建・官制秩序擁護の学)の精神生き方を反映する減点法(欠点突つき出し)制度として、科挙学歴の仕組みは成立した。中国で、朝鮮や日本で。こいつは今も、少しも変わっちゃいねえのだ。朱子学自体、上辺は風化した今の時代も。権威・既得権の縦型社会の損得打算と根深く結び付いて。神話(虚構)のたぐいに根ざし、人に根ざした変革を受け付けねえ空疎な社会・政治構造の性根そのものとして。

 まともに仕事をした者、しようとした者なら必ず気が付くはずだ。この手の高学歴者の集団や組織ってのは、実務は無能力者の集まりってことに。

 「俺は枝葉のことはやらねえさ―」。 こううそぶく者達が、実は「枝葉の事柄」はおろか「全体の事柄」にも無能だったって場面に、真っ当な職人、労働者なら嫌ってほど遭遇してるはずだ。

 どんな仕事でもいい。まともに関わった者なら必ず気が付くだろう。枝葉と見える事項の中に、実は全体の構図さえも変革しなけりゃままならねえ事柄が往々隠されてるってことに。

 なんか変だな? 当初は点でしかねえ疑問が面へと広がり始める。こいつにいち早く気が付くのは、真っ当に、徹底して打ち込む現場の労働者であり、現場の労働者の直観を直観するだけの実務を積んだ管理者なのだ。

 静的縦社会の損得打算と根深くつるんだ朱子学的制度―「君、君ならずとも臣、臣たれ」。これがこの種の直観を曇らせ、曇らせるだけでなく抑え付け、組織的な損得打算が許す限り「御無理御尤も」で押し通す。

 このことの馬鹿馬鹿しさ、害悪に気付いたのは封建の昔も一緒。真っ先に直観したのは、人民達と直に関わり行政実務を担わなきゃならなかった下級武士達だった。娑婆の現実を直視するしかねえ下級武士達がやがてよりどころにしたのが、彼らの感性と実践を「活学問」の名において肯定する陽明学だったってのは、分かりやすい話だ。

 陽明学自体は、統治と支配の道学=儒学の一分派に過ぎなかった。だがそこには、キリスト教になぞらえりゃ旧教→新教への移行にも等しい革命性(人間様の主体性への切り替え)が込められていたのは間違いねえ話だ。

 ついでに言や、西郷隆盛が優れてたのは、陽明学の道学性にも若けえ頃から気が付いてたこと。「金看板(建前)になんか囚われねえで、人の心に立ち戻れ」。御無理御尤もの馬鹿君主の命で島流しに遭った西郷が、島の子達をこう諭したのは至極当然。暴発気味の反乱にわが身を委ねて死んだのは惜しかったが、人民の反抗や外圧に焦り統治のための統治に傾きかけた新政府に異を唱えて隠とんしたのは、人(人民の暮らし)に主体を置く西郷の思想と感性の必然だった。

 この国の仕組みはいまだ、真っ当な維新の志士達が夢想した理念や制度にすらなっていねえ。このことははっきりと自覚することだ。特攻隊同様、はやる若さを利用するだけの上っ面の国営ドラマや維新ごっこになんか、たぶらかされねえで。

 この国の科挙学歴制度は、時代の波にあわてふためいて統治のための統治に陥った明治政府が編み出した、官製資本主義の実利の擁護と天皇制と癒着した統治の仕組み・幻想擁護のための先兵募集のリクルート制度に過ぎねえのだ。当時の文書も「国家の中堅養成」と明確にうたってる。科挙的「頭いい」幻想と中央志向、立身出世の飴玉をダブらせて成立した、当時としちゃ新手の家臣養成制度なのだ。

 めんど臭せえから結論に行く。戦後はこの手の虚構頂点の減点法、御無理御尤もの性根を仕込む空虚な手習い制度が、明確な主と思想がねえまま社会の既得権や権威の残り火とるつんで一人歩きを始めた。それが社会に蔓延し、社会全体を空虚ながらんどうに落とし込んだってこと。与えられた餌にしか食いつかねえ、食い付けねえ脳みそばかり増産して。俺は何のために…。「落ちこぼれ」や「引きこもり」が出るのは当たりめえの制度。

 枝葉でも真っ当な実務。こいつの根底にゃ、一人ひとりの主体性と人間の肯定がなきゃ成り立ちっこねえ。変革、イノベーションの中核は、どんな時も人間様の情熱情念、魂なのだ。ヘンてこりんな権威や飴玉のたぐいを戴かねえ、人貶めねえ並立複線の制度、人の心の主体性を肯定する活学問の制度。こいつに本気で切り替えねえとね。それは国家理念や人間認識の変革と当然イコールなのだ。

 共鳴共感、義理人情、人の並立、人民民主の共和制万歳。一人ひとりに根ざしたインターナショナリズム万歳。