前衛、インテリ・知識人、市民面、東京人…、話の間口の狭めえ奴は駄目

 話の間口。一つの言葉や話から、どれでけの幅と深さで相手を感じとれるか。

 四十二年前、東京に行った俺が一番感じたのは、東京出の学生共のこの手の間口の狭さだった。

 遊び呆けるぼんくら学生もだったが、特に感じたのは学生運動のたぐいに首突っ込む前衛・先駆け面のやからのアタマの固さだった。

 今思や、当たり前ではある。前衛なんてもん自体が、メイド・イン・知識の脳みその思い込み、思い上がりの代物。

 先日、お利口面の新聞記者共のアタマの悪さに付いて書いたが、根拠はまるで一緒。思い込みや権威付けられた(今風にゃ市民権とやらを得た)知識に当てはめてもの考え、決め付ける者達の変わらぬ習性。決められたフォーマットに当てはめるしか能のねえ、はめ絵頭脳。

 官僚共の造語のたぐいに踊らされるぱ〜な記者達。楽だろね。操る側は。

 知識が先か経験が先か。経験が先に決まってる。こんなイロハもわからねえまま、分かっても知らん顔のまま(損得打算でね)、与えられたエサ食って一生終わる。

 最初に仕組みありき。仕組みの中でちょこまか。それがこの手合い。この手合いを量産するのが、科挙学歴の官僚頭脳養成制度。一流大学出だろうが五流大学出だろうが、この手の馬鹿さは平等ってのが、その後の人生を含めた俺の実感。

 感性は大事。体感は大事。トータルにもの感じる力、経験力は大事。

 この手の力の大半は、餓鬼の頃身に付く。教育教育と勝手に人は言うが、俺の経験じゃ大半は親の責任(ハナから縦社会の学校やサラリーマン教師に望む方が無理)。

 子は親を選べねえ。馬鹿な親に育てられちまった子は、どうすりゃいいべ? 一生懸命働くことさ。感じたもん、見えてきたもん大事にして。真っ当な自己変革。手がかりはいくらも転がってる。そん中に。

 銭金面で幸せになるかは知らねえ。有りもんで馴れ合うのが、いまだ封建・朱子学構造のこの国の娑婆、大半が帰属のサラリーマン社会だからね。

 それでもやるしかねえさ。人のためでも社会のためでも国のためでもねえ。自分のために。真っ当な次代のために。それが地上の生物としてのヒトの道さ。

 共鳴共感、義理人情、人の並立、人民民主の共和制万歳。一人ひとりに根ざしたインターナショナリズム万歳。


(付記)

 再掲だけど。

 http://www.youtube.com/watch?v=ORIL_VOH-lM
 
 山崎ハコのよさは、どの時代の者にも訴えるのものがあるところだ。フォークシンガーってこと。