勝手な批評

「事務所に永年うまいこと使われてた気がするけど、あちこち見たりしないで歌い続けたのは良かったのかもしれない」

 こんな意味のことを山崎ハコは、どこかで言ってた。

 気丈に生きてるようでも、閉鎖的な男の利権社会にうまいこと使われる九州女の性みたいなもんを引きずっていたんじゃねえかって気はする。九州女と直に関わったこたぁねえ俺の、勝手な推測だが。

 よけいな話だが、九州女ってのは相当したたかって感じもある。ていうか、女そのものがしたたかな生き物ではある。

 一途な人生ってのは大事だと俺は思う。だが社会から閉鎖性が姿を消せば、一途の大半は消えて無くなるべ。

 保守反動、既得権のやからが「庶民の範」と持ち上げたがるのは、この手の一途。既得権はどの世界も、閉鎖性に支えられる。当然御所望、その再来。

 演歌歌手なんてのは、たいがいこの手の一途を装う。装う奴ほど裏へ回りゃ何してるか分からねえのは、軍隊も装う国技のお相撲さんも、補導係とつるむ二等三等学校のチンピラ応援団も一緒。

 一途ってのは、開かれた世界でも成り立つのか? 成り立つに決まってるさ。自分の魂に、自分(孤独)の世界に拠るだけの度量と生き方がありゃ。きょろきょろキョトキョト、有りものに食いついたり乗っかったりの性根棄てりゃ。

 自分の持続、イコール自前の感性の持続、イコール自前の経験の持続。センサーはいつも自前の魂。

 当たり前の話。当たり前に立ち返りゃいいだけの話。流行、棚ぼた話、進歩、先進性etc.の虚構に迎合の性根棄てて。笑われようが馬鹿にされようが、ネクラとののしられようが。

 紡ぐのはどんな時も、自分の魂の糸なのだ。紡ぎ終わるまで決して振り返っちゃいけないという昔の寓話は正しい。

 それは耳を閉ざすことじゃねえ。聞こえてるさ。見えてるさ。でも自分の魂。魂の歌。売れようが売れまいが。それが人民の歌、フォークソング

 ハコは田舎もん。のこのこ都会に出かけても転向しなかった田舎もん。閉鎖の田舎の衣も、否応無くまとっちゃいたろうが。達してるさ、自前の歌に。自分が生きる証しとして。

 http://www.youtube.com/watch?v=gZVUoarRNjY