ファシズム

 ファシズムってえと狂熱のイメージを連想しやすいが、この手の時代の社会一般の状況は多分逆だべ。

 十年ほど前、ある旧制中学の教務日誌を、大正年代から敗戦直前まで読んだことがある。

 感じたのは、いわゆる満州事変から二・二六事件前後の頃までの記述の変化。書き手の気持ちの変化だべ。

 満州事変の頃は、さてこれからどうなるかってハラハラ感みてえなもんがどこかあった。二・二六頃になると妙に淡々。記述も事務的になる。以後ずっとそんな感じ。(敗戦時のはなぜか見つからなかった。廃棄したんだべ。やばいんで。)

 書き手にもよるだろけど、流れがそんな感じなのだ。数年単位の。

 上意下達。言われたことの処理。人がロボットになるってこと。心理で言や、感情感性の希薄化。

 日露戦争とその後数年のウルトラ国家主義教育の時代(この頃旧制中で学んだ世代が自滅戦争引き起こしの中核になったってのは忘れねえ方がいい。教科書にゃ書いてねえが)、この雪国の学校の生徒や父兄、教師は反乱した。紋切型のウルトラ国家主義校長の虚妄(ほんとは人なんか育てやしねえ)を見抜いて。追い出したってこと。余計なこと言や、カビ臭せえ資料ん中からこういうのを嗅ぎ取り、読み取りして、埋もれたもん掘り出すってのは実に愉快だった。お陰で締め切り間に合わずとかで首になり、その後数年(今も)失対仕事で食いつないだけど。

 分かる奴は分かるべ。旧制中の流れ汲む高校なんてのは良い子、権威主義、いわゆる中央や地方で威張り散らすぱ〜しか生まねえ所がほとんどってこと。そん中じゃこの雪国学校は、草の根民権生んだ土地柄もあって、ずい分ましな学校だった。それでもこの時代は、この体たらくだった。

 チンピラ学園国家。こいつは俺の実体験や資料あさりの経験から出た実感だ。この国にゃ今も変わらず、補導の教師(もっともらしい面下げた道徳官僚)と草の根面のチンピラ共(手前勝手な怨望を国家なるもんで晴らそうとする馬鹿)がつるんで作る支配構造、精神構造がある。飼育されたその他大勢の良い子(典型的にゃ東京仕様のサラリーマン、サラリーウーマン)は、感情失せた子羊。

 オウム・麻原彰晃なんてのはこの手の構造の一変態。こき使われて淡々と人殺した者達の大半は「頭いい」、「よい学校」出た良い子達だったってのは忘れちゃいめえ。

 良い子はロボットになる。必ず。肝心かなめの場面じゃ。それが明治手製(遡りゃ封建武士階級手製)の官僚仕様、科挙学歴仕様のこの国、この社会の人作りなるもんの成果なのだ。その心は、自分のアタマで、感性で考えねえんだもんね。

 昨日も書いたけど、「この国の男共を軍隊に入れろ」とほざいた婆あがいる。チンピラ学園国家の応援団。この手の訳知り面の怨望婆あのことさ(爺いの方がずっと多いけどね、この手は)。

 飼育された良い子(役立たず)をひと先ずこき使うにゃいい手さ。軍隊式のチンピラ学園国家。見せかけの情熱、ファシズム。命令してくれるんだもんね。ああしろ、こうしろ。みんなそろって土手から転がり落ちるまで。

 心が空っぽ、がらんどうの時代にゃ、この手の「勇ましさ」は案外通るべ。東京人が選んだ流行作家あがりの扇動知事、大坂人が選んだ受けねらいのテレビあがりのチンピラ知事。これなんか、いい例。良い子が、良い子生む仕組みが再生産されてる間は。


 今日もお仕事。今朝はお終い。


 共鳴共感、義理人情、人の並立、人民民主の共和制万歳。一人ひとりに根ざしたインターナショナリズム万歳。