アンチテーゼなんかで終わっちゃいけねえ

 神棚に載ってる言葉や思想を有難がるのは、いわゆるアカデミズムも新旧左翼も右翼もリベラル面もみんな一緒だった。

この手の精神構造、脳みその構造は、神棚の主が天皇だろうがマルクスレーニンだろうが、西欧近代思想だろうがまるで変わらなかった。

 この種の非行動(実感体感、娑婆の経験抜き)の教養主義は、知の優越は、イデオロギーという名のアタマでっかちは崩壊した? 大衆社会になって。

 拡散しただけさ。大衆なるもんの中に。

 たとえば明治以来の「知の神棚」、東大。イワシの頭も信心の崇拝構造は今も、何ひとつ変わらねえべ。口先リベラル吹聴し、腹ん中は何んにも変わらねえ教養主義者共。一般大衆、お受験ママのたぐいがこの隊列に加わっただけさ。中高一貫「人作り」学校、塾・予備校のたぐいは繁盛してるべ。不景気の今も。

 1980年代前半だっけ。吉本隆明は「日本社会は高度化しちゃった」とか言って、へんてこりんなことを始めた。ブランドもの着込んで大衆誌に登場したり。

 当時の吉本の行動は、左翼性だの戦後民主だのヒロシマだの、わが身をほんとにゃ振り返らねえまま、神聖化した観念・記号にへばり付く教養主義者や左翼(無自覚な商売人)への最後っ屁ぐらいのもんだったと、俺は思ってる。

 売文家としての自分に正直だったとも言えるさ。あんたも俺も所詮売文家じゃねえか。左翼活字業界崩壊の真っただ中に住むところの―。

 ここに落とし穴はあったと俺は思ってる。東京という「知」の中央集権の住人の。

 人が本来ひかれるのは、上っ面の言葉や符丁やブランドじゃねえ。そういうもんの上にあぐらかかねえで自前の表現をひねり出す行為に対して、本物性に対してなのだ。革命や変革にひかれるってのは、そういうもんだ。

 そいつを黙ってやりゃ、やり続けりゃ良かったってだけの話。小狡いだけでアタマ悪りい者達のアンチテーゼになんかならねえで。飯食えなきゃ、失対仕事でもなんでもやりゃ良かったんさ。

 そうすりゃ、もちっとましな思想は出来たんじゃねえかな。人間様は変わらねえ。社会が上っ面高度化しようが記号化しょうがブランド化しようが―。下町の職人あんちゃん吉本が探り当てようとしたものが。


 共鳴共感、義理人情、人の並立、人民民主の共和制万歳。一人ひとりに根ざしたインターナショナリズム万歳。