「仕方なかった」の構造

 「当時は植民地主義の時代で仕方無かった。朝鮮などを悪意で植民地にしたわけではない」。

 何んかの討論番組で、こう言った「一般参加者」がいたとか。

 この手の優等生はどの時代も、どこにもいる。

 なぜ優等生かって? 国家という名の仕組まれた娑婆の組織と体制、そいつが生み出す正しさに身を重ね、生身のわが身を省みねえからさ。

 「仕方無かった」のは、その程度の脳みそが生み出すところの、善意の顔で人貶める無自覚な搾取者(組織や国家の小間使い)の立場上の話。

 この手の優等生をあごで使う覚醒したワル達は、仕方無えなんて腹ん中じゃ間違っても思わねえ。だから欲望、怨望を禊ぎで正当化する手管(仕方無かったに見せかける手法)を作れるんさ。

 優等生共の泳ぐ池。それが、禊ぎの生み出す仕組まれた娑婆。

 優等生を作る仕組まれた娑婆の一つが、覚醒したワル達が自覚的に構築した学校社会。こいつは戦後も、無反省に拡散してるってことは忘れねえ方がいい。

 アタマ悪くても優等生にゃなれるさ。



 共鳴共感、義理人情、人の並立、人民民主の共和制万歳。一人ひとりに根を置くインターナショナリズム万歳。