大衆なるものと自分 (第四版)

 大衆からの孤立を感じた時、人は転向する。

 戦前の転向左翼の心理をこう言ったのは、吉本隆明だった。慧眼。土着派吉本。

 根無し草、地べたを持たない知識がずっこけるのは当然だからだ。

 その吉本が1980年代、「いともたやすく転向した」と誰かが書いた。同感。

 かつて吉本は、何かの対談で言った。「下町長屋の住人がマンションになんか引っ越したら、死んじゃいますよ」。

 1980年代には「社会は高度化した」「大衆は上昇した」。(後のセリフはその通りだったか忘れた。)

 大衆って何んだったんだろう。「この国の知性」東大のセンセイの足元をかっぱらった土着って、何んだったんだろう。

 1980年代、転向した吉本はかつての信者達の「怨嗟に満ちた声を毎夜のように聞く」と言った。「あんたの本さえ読まなかったらうちの息子は…」。そう言う父親の抗議と嘆きを聞かされたとも言った。

 1960年代から70年代にかけ、貧乏学生時代も含めて数十冊吉本の本を買った俺も、信者と言えば言えたろう。

 1980年、嫁さんと子供達を抱えて貧乏暮らしに落ち込んだ俺は、親兄弟を含む上昇した大衆から、散々つばきを吐きかけられた。(この手の者達は今も変わることなく俺の周りに存在する。)もう死んだが、田舎に舞い戻った俺を失敗者とののしった父親も、原因がこれと思えば抗議の電話ぐらいしたろう。その程度の、どこにもいる父親だった。

 「怨嗟」を俺が転向吉本に向けなかったのは、食うにやっとでそんな暇なかったってこともあるが、もう冷めてたってのがある。食い詰めたんだろう吉本も、ぐらいに。

 「左翼業界人」という造語が、サブカルチャーなる成らず者世界で生まれたのも80年代だった。業界人の拠って立つ基盤、売文。

 サブカルチャーがなぜ成らず者? 三流のお笑い芸人同様、無自覚な商売人=戦後民主主義・旧新左翼へのおちょくりを売りにしただけなので。その先へ行く性根はまるで無い、小狡いだけの者達の売文世界。今じゃ思想業界そのものが、この位置で停滞、というより崩壊している。

 吉本の「私は売文家」。正直って言えば正直だが、要らぬ正直だった。それだけじゃ無い自分があったろうに。そんな所を突っつく者達相手に、開き直ることは無かった。

 吉本が暮らしのための勤めを辞めなけりゃ、あんな無様をさらすことは無かったと俺は思っている。ニコヨンでも何でもして食いつなぐ性根がありゃ、売文家などと言って開き直ることは無かったと思っている。

 売文家が、買い手の程度に引きずられるのは当然だ。高度化した世界。上昇した民衆。その程度の者達しか、視野に入らなくなったということ。

 吉本が思想の根っこでイメージしていたのは、本や知識のたぐいに元々縁の無い大衆だった。本や知識から智恵を仕込んだりしない大衆。暮らしの実から智恵を仕込む民衆。それはかつて、どこにも普通にいた人々だ。吉本の生まれ育った下町にも。

 本や知識から智恵を吸い上げる民衆。高度化した社会の上昇した大衆。吉本のイメージを狂わせた一端には、そこを足場に父親を責める娘の存在もあったろう。

 本や知識から智恵を仕込まず、暮らしの実から智恵を仕込む民衆。これを大衆の原像と言うなら、それは吉本にとって、自分の周りで増えたか減ったかに関わることのない、人の実像―文字通りの原像―だったはずだ。この種の人間像は、知識と経験、知識と感性、知識と実践の関係(とりわけ後進とされる国や地域での両者の関係)を真っ当に表す象徴的なものだからだ。それは吉本が発見したのでも何でもない、普通に真っ当に生きる人々が、空気のごとく体得している人間像であり自画像なのだ。学問(知識)は大事、だがどっちが先か忘れるな―。学生という半端な身分の者達の一部が、彼に引き付けられたのはこれだった。彼らは嫌でも、見せかけの知が社会構造とつるんで作り出す上昇を蹴飛ばすしかなくなる。知識知性と自分のまともな関係を、口先じゃない、体でつかむために。

 戦前の左翼がなぜずっこけたのか。戦後の旧新左翼、市民主義のたぐいがなぜ軽いのか、嘘臭いのか、理念理想と裏腹に娑婆の義理人情に欠けるのか、本音は差別屋なのか、土壇場で役立たずなのか…。

 それは単純に、取って付けた知識や知性、それを支える虚構(吉本がかつて言った擬制)に乗っかって平生思考を巡らし、上辺の意識に同意を求め、そこで自分を持ち上げ、人を区分けし切り捨てて生きているからに過ぎない。

 東京=知の中央集権の虚構。開き直って売文家をかたり始めた時、吉本はその一住民に過ぎなくなった。

 売れようが売れまいが真実。それはどの世界にも確実に存在する。それは売れても売れなくてもやって行ける生活力―、これに支えられるしかない。

 見た目は絶対少数派になっても事実は事実、真は真。この単純な真理を吉本は忘れたと俺は思っている。

 この種の言い方は綺麗事と紙一重。それを承知で俺は言う。売れようが売れまいが真実は真実、事実は事実。それが思想の地べた、真っ当な娑婆の地べたなのだ。普通の人は案外、この種のところで生きている。汗流して、どうにかこうにか。

 どんなに社会がとち狂っているように見えても、事実の側が実際に少数派になっても、これはいつの時代も変わらない人間の地べただと俺は思っている。真理を気取った虚構の廃墟から、毎度芽が出る次代の暮らし。この手の事実一つを見てもそれは明らかだ。


 共鳴共感、義理人情、人の並立、人民民主の共和制万歳。一人ひとりに根を置くインターナショナリズム万歳。