解釈の道学と人民

 「あれはこれこれの事、これはそれそれの事。こういって物事を解釈するのが学問なら、意味のないことだ。」

 こう言ったのは西郷南洲だ。

 出来合いの構図に物事を当てはめるだけ、ということ。

 西郷の言葉の元は、陽明学だった。

 陽明学が主体性の学と言われたのは、ここにある。

 陽明学は人間の主体性=革命性の要素を宿しながら、封建官僚の解釈の道学=朱子学の下にぶら下がった、精神の不満分子用の飴玉に過ぎなかった。これは、はっきりさせておかないといけねえ。

 自己表現のためのそれ以上の言葉や理論を持たなかった時代にあっては、それに仮託して思いを表すしかなかった。

 人や時代を見つめる時に大事なのは、その時代の言葉や理論、思想や宗教などに留まらねえで、相手の思いの深井戸の底におもりを垂らしてみることだ。西郷自身、それの出来る男だった。

 はっきりと見抜いておかなきゃいけねえのは、今の学校制度とそれに付随する教員や学者共の資質、追随する親の性根、それに仕立てられた「○×式のよい子達」の意識は、西郷が、大衆の原像達(実生活の感性で人生を生きる者達)が唾棄した人生の据え物斬り、解釈の性根の者達ということ。

 俺自身三十数年前、マスコミなる馬鹿集団にいっ時身を置いた時、この手の馬鹿達から散々辛酸を舐めさせられた。遡れば、左翼・活動家なるやからを含む学生達のほとんどもこの手合いだった。情念情熱の時代だったかのごとく吹聴される1960年代〜70年において。

 それほどまでに根深けえってこと。統治の者達に感情移入の解釈の道学=朱子学のメンタリティは。右だろうが左だろうが市民派だろうが。中国、韓国、朝鮮も多分含めて。

 小沢一郎に人々が期待したのは、この道学の構図を、既得権・既成の意識の解釈ばかりでにっちもさっちも行かなくなった国と社会、その象徴の官僚制度をぶち壊し作り変えるんじゃないかと、意識無意識に幻想したからだろう。(蛇足だが民間装うサラリーマン・組織人共の中にゃ、真面目な奴も中にゃいる官僚なんかよりも遥かに悪辣な種族がいるってことは、忘れねえことだ。)

 この潜在顕在の意識の流れが間違ってるとは思わねえ。

 気をつけなきゃいけねえのは、あなた任せの期待は、またぞろ嫌でも、ろくでもねえところに行き着くことがあるってこと。陽明学の情念がいともた易く明治なる新封建の仕組みに行き着き、癒着したように。軍部という見せかけの情熱、命がけ・主体性は売りだけの特権階級の愚物を生んだことを見りゃ明らか。


 「上昇した社会(実体は頭でっかちなだけの社会)」の中で吉本すら忘れちまった大衆の原像を、人生生き方のイロハを、口先・言葉や本の中じゃねえ、自分自身の実生活の深井戸の中でつかみ取ること。そっから宗教、思想、道義道徳のたぐいをとらえ返すこと。こいつが何より大事なのだ。人間一人ひとりにとっちゃ。時代がどこでどう曲がりくねろうが、ずっこけようが、目先にニンジンぶら下げて来ようが。



 共鳴共感、義理人情、人の並立、人民民主の共和制万歳。一人ひとりに根を置くインターナショナリズム万歳。