人は並立 その二

 前にも触れたが、地べた這う人生で毎度出くわすこと。

 何んかの上に自分を置く者達の差別と蔑み。

 その場は分かる(分かったつもりになる)者達は中にはいる。態度を本質的に改める者は無い。

 この種の者達の腹の中に煮えたぎる思い。「こいつは俺より下。いや、下じゃなきゃいけねえ。人品骨柄含めて」。散々出くわした。三十数年前、彼らの視野じゃ一格下がりの現場仕事やってた頃も。その後延々のフリーター人生でも。

 力があるとなまじ見られて、ひでえ目に遭ったことは何度もある。

 営業仕事なんかでも出くわすが、いわゆる物書きにゃこの手は多い。俺のうかつな好意(見下したと思ったんだろう)につばき吐き掛けて来たなまじフリーの物書きは、四十代で首吊って死んだ。

 上昇志向の性根は、フリーなんかになっちゃ絶対にいけねえ。ヘタに真面目に考えりゃ、嫌でも行き詰る。自己矛盾で。

 組織人の物書き、例えばテレビや新聞の記者のたぐいは、その点死なねえ。死なねえで済む。だから定年退職、自然死するまで人を差別する。何かの上に身を横たえて。

 先日も出くわした。盗作したのはあんたと信じて疑わねえ男(組織の物書き)に。誰も聞かねえので仕方無しに俺が聞いた話を、勝手に相手(組織の物書き)が書いただけなのだが。フリーターやってると、こんなことにゃ、しょっちゅう出くわす。

 六十年の人生。田舎もんの俺は田舎もんに舞い戻り、奥底に自分なるものの手がかりを再生した。体で。死ぬまで未完だろう。頭で分かることなんざ糞の役にも立たねえのは、骨身に沁みた。

 人は並立。このことの中からしか、人は人を汲み取れねえ。人を「分かる」のは整理整頓、直列(差別)好みの頭じゃねえ。体から湧く直感直観、共鳴共感なのだ。こいつにゃ元手は要る。泥んこの娑婆を体で生きるという―。



 共鳴共感、義理人情、人の並立、人民民主の共和制万歳。一人ひとりに根を置くインターナショナリズム万歳。