辺境からの脱出
日本というのは辺境だ。
勝手に自分を辺境人に仕立てる。
移入のもので自分を飾る、古代以来の権力・上層世界。それに連なる、損得打算と根深く結んだ官僚宦官世界。これが日本を辺境にする。
人民庶民に辺境はない。生きる力、温かさを生む自前のるつぼ、溶鉱炉を持つからだ。
この国の「知」に目覚めた途端、人民庶民は辺境人に早変わりする。
この国の「知」、とりわけお墨付きの「知」は、自前の溶鉱炉の産物じゃねえからだ。
自前の産物を信じず、あたえられた産物を拝受。明治手製で今に至るこの国の科挙・学歴制度、都市都会に根深く残るイエに根ざした家族のメンタリティー(世紀越えで今に続く封建サラリーマン=武士階級の名残)。それはこの種の上昇人(自分の無い人々)製造の温床。
田舎の歴史ほじって感じた、寺子屋的知との違い。それはここにある。
俺はこの差を実体験、実感するために生きたようなもの。意図したわけじゃなかったが。
辺境人からの脱出? 簡単さ。自前の感性、体験を大事にすればいいのだ。体感に踏み止まって。どんなに蔑まれても。
それは日本主義etc.(上昇の反動)とはまるで無縁。インターナショナル、地球的、生物的なもんだからね。人民庶民は。
結晶するさ。溶鉱炉の中で自前の知が。耐えることだ。それまで。声かけられても脅されても振り向かずに、黙って編み続けた寓話の主人公のように。
共鳴共感、義理人情。人の並立、人民民主の共和制万歳。一人ひとりに根を置くインターナショナリズム万歳。