畳の無い部屋と温かいもの

 「何か温かいものを作ればいいんですよ」

 坂口安吾が言った言葉だ。戦後間もなく、織田作之助太宰治との対談の中だったと思う。

 それは相手に向けたものだが、何より彼自身に向けた言葉だった。

 戦前だったか戦時下だったか、誰かが言った安吾評を、彼自身引用している。「近来稀な名評だそうだ」とかなんとか言いながら。

 「坂口安吾は稀に見る大伽藍だが、中に入ってみると畳が敷いてない感じだ」。

 ツボを得た批評だと今も思う。作家(表現者)をめざした安吾は、批評精神と渇望の激しさ故に、目に見えていたはずの温かさそれ自体を表現することは遂に無かった。

 安吾は偽善と闘った男だ。口先や観念ではなく、肉体(実体験に根ざした感性と体感)で。織田作や太宰との対談を読んでも、その辺がよく分かる。

 文壇という名の似非表現者達の世界。それへのもやもやとした怒りや憤懣が、彼を表現者たらしめなかった一因じゃないかと今俺は思う。

 文壇。それは安吾が、織田作や太宰が直観した通り、今も変わらずどこにも存在する反権威の名の権威の組織、近代性を装った明治手製の封建・縦社会の一亜種に過ぎなかった。「村長が必要なんだよ」。織田作のこの言葉は図星だ。

 織田作はまた「俺が何とかするよ」。酔っぱらってそう力む安吾をからかって言う。「いずれ都落ちだよ。田舎一座は。どんなに厚化粧したって」。

 1947年の彼らは、対談の場、先進を装う東京が実はどの程度の社会なのかを肌身で感じていた。1947年という時空―封建遺制の一時のほころび―が、彼らの言葉を活字にして今に伝える。

 織田作はその年間もなく死に、太宰は翌年死に、安吾も8年後に死んだ。

 無頼派は終わった? 終わりゃしない。元々人は誰も無頼派。自分が始まり、自分が起源という意味で。

 「何か温かいものを作ればいいんですよ」。安吾のこの言葉は誰にも当てはまる。だれもが表現者なのだ。自分という存在の。

 自分とは何か? 安吾のように七転八倒してもしなくても、必ずここに突き当たる。温かいものを本当に表そうと思えば。

 その時どうする? 自分の偽善、人の、社会の偽善。体当たりして畳を敷く間も無く死んだ安吾と、曲りなりにも畳の間を描いた(と俺は思う)太宰。(織田作の作品は俺は知らない)。

 本当の温かさは? 真の表現の場は一体どこに? 彼らの年齢のはるかに先を生きる俺には、言いたいことは色々ある。

 だが共鳴共感。この思いに立つ時、言いたいこと、批評なんざ糞の意味も無いと思っている。

 彼らはある時確かに存在し、度胸と才と幸運を介して存在は今に伝えられた。そして俺は過去も今も、彼らの存在の痕跡から自分なりに何かを汲み取ることができる。共鳴共感の思いで。

 自分の表現に、自分とは何かの探求に全身で挑んだ者。どんなに不完全でも。これらの人々は同志だ。いつの時代の者でも。そして今俺は、ネットの中にもその種の人々が時折居るのを知っている。一時の流れ星だとしても。

 言葉なんかかける必要は無い。「おお、そうだ」。そう感じたら後は自分がやるだけなのだ。真の連帯の道は、一人ひとりの孤独の作業の彼方にしか無い。このことだけは骨身に沁みて感じている。



 共鳴共感、義理人情、人の並立、人民民主の共和制万歳。一人ひとりに根を置くインターナショナリズム万歳。