意味の無い我慢大会

 その昔やった受験勉強。

 これほど意味のない我慢大会は無かったと、振り返って思う。

 俺の心の底に今残っているのは、餓鬼の頃好きで描いた漫画や絵の感覚、裏の山で遊び呆けた感覚、ラジオや年長者達、大人達から聴き覚えた日本を含む各国民謡や流行歌の感覚、自分で勝手に掘り下げた学びや仕事でつかんだ感覚等々だ。この種の感覚として今残るものは、お受験勉強の中にはまるで無い。

 人間、好きなものだけやっていては生きて行けない。これは真理ではある。人はどうしてもやりたいものがあれば、補助金などのひも付きを当て込まずに自分で本当にやろうと思えば、一応金にはなるが好きでも無いもの―、これを色々やりながらやるしか無くなる。

 「好きなものだけやっては生きては行けない」。これを説教として諭す者は、ほとんど皆―というより全部が全部、人に嫌なことを強いて利益を得る者達だ。高偏差値の学校への教え子の進学を我がことのように喜ぶ教師、子供の高学歴や出世を我がことのように喜ぶ親、取ったメダルの数をわがことのように喜ぶ愛国者達、生真面目に働く者達を道徳的に賞賛する経営者等々。これらの人々にとって、他人の行為は実際に「我がこと」なのだ。

 「人間、好きなものだけやっては生きては行けない」。この種の説教から入る者達は、伸びるべきその人の芽を確実に潰す。なぜなら、とりわけ子供達にとって、好きなものはどこか後ろめたいもの、良くないもとして心の片隅に押しやられてしまうからだ。俺にしたところで「そういうものは学校の勉強をしてからやるものだ」、これをそのまま忠実に受け入れていたなら、やりたいことはその中できれいに忘れるか、あんなものは手の届かない酸っぱいブドウだった等々の分別臭い理由を付けて、一生やらず仕舞いになっていたろう。

 人間の心の底に、感性に経験に真に残ることの無い我慢大会。この種の消耗からの回復にはずい分時間がかかったことだった。

 意味の無い我慢大会としての受験勉強。これに意味があるとすれば、言われたことの処理に長けた官僚、宦官、事務屋、これをめざす場合だけだ。

 やりたいことをやる。そうすれば、誰でも必ずある時気が付く。このままじゃやばい。

 食うという現実には誰もが必ず直面するからだ。その時でいいのだ。「嫌なこと」も取り入れるのは。小さな子供でさえ、この種の現実感覚は持ち合わせている。親が真っ当なら。本当に汗を流して働いているなら。そういう背中を見せているなら。「親の思い」等々の勝手な都合でいじり回さないことだ。反省を込めて。


(付)

 以下はある人のブログのコメントとして送ったもの。転載御容赦。

「論点はずれるかも知れませんが、経験的に感じた事柄を記させて戴きます。それは、私を含めた民衆はいつの時代も、人と人との関係やその総体としての社会の本質を、案外直感的に見抜いているのではないかということです。
 それを一番感じたのは、福沢諭吉の『学問のススメ』が、あの時代では破格の90万部(だったと思います)のベストセラーになったという点でした。人は元々、平等というたぐいの事柄や実学を尊ぶ精神を、日常生活の根底で感性のレベルで受け入れられていたのではないか。そう強く感じたものです。
 以前、江戸後期から幕末頃の私の田舎の寺子屋を調べていた時のことでした。寺子屋はご存知のごとく、今の進学塾のたぐいと違って日常の実学や民衆の常識を子供たちに教える場でした。教える内容は封建的な要素も含めて相当雑多なものだったようですが、目を細めて眺めると底流には、お天道様の下では人は誰も同じ(人はお互い様)というものがあったように思います。(専門的に仔細に調べたわけではありません)。
 いつの時代も、子供も民衆も押し付け(分別臭いものや実地においては嘘臭いもの)は、感性や生活実感から本能的に見抜いて敬遠するものです。立身出世等々のニンジンがぶら下がらない学問においては、技術的な事柄でも精神・倫理の事柄でも、より本質的な実用性が求められ、案外この辺で寺子屋は成り立っていたのではないかと思ったものです。
 明治の初期、私の地方のある田舎では、寺子屋を拠点にルソーなどの読書会があったということです。そこでの人々の読み方は、私の感じるかぎり極めて直観的なものだったようです。それは、今の多くの学生や知識人達のように教養を積み重ねて中身を理解するというのではなく、「おう、おらもそう思う」。そんな風に、自分の日々の感性や経験に基づいてストレートに受け入れていたように感じます。福沢の『学問のススメ』のベストセラー化の根底にも、これと同じものがあったように思います。更に見れば、武士とは名ばかりの下級武士、日常生活においては民衆とそれほど変わらない生活を送っていた西郷隆盛ら幕末の志士達の根底にも、この民衆的な実学の感性が根づいていたように思います(福沢なども当時はそうだったのではないでしょうか)。
 「四民漸く自由の権を得せしめんとす」と記し、武力独占の武士社会からの解放としての徴兵制―これを記した明治5年の徴兵告諭も、明治維新を解放と捉えていた当時の者達の意識を反映するもののように思います。当時、これほど速やかに四民平等の意識が波及した根底には、民衆の寺子屋的な感性や道理の感覚があったように思えてなりません。」