保護の名の非保護と突破の人生

 排外的な保護主義を唱える人や組織は、内にあっては社会や組織の弱い部分に居る者をいじめ、切り捨て、自分や組織(既得権)の温存を図る。

 こういう構図はつい先日も目の当たりにした。

 こういう組織や体制に限って、国民の暮らしのためだの孤高の精神だの一致団結だのと言いたがるのは、昔のニッポン帝国も北朝鮮も変わらない。

 なぜそうなるかは、考えるほどのものでも無い。守りに入っているということ。生き方考え方が。

 窮地に追い込まれた時の一番いい方法は、うだうだ頭で思わないでばかになり、体当たりで人と関わって前向きに進むことだ。これは貧乏暮らしの窮地の中で何度か経験したこと、それなりに実践してきたことでもある。

 この種の選択に「孤高」も「保護主義」もあり得ない。関われる者とは誰とでも付き合う。出せるもの、売れるものは何でも出す。食うために。

 自分を家族を本当に食わそうと思ったら、これしか無いのだ。その中で力が湧く。アイデアが出る。新しい道筋が、人との付き合い方が見つかる。

 それだけのものだ。集団でも個人でも、真っ当に生き延びる道は。