社会的なものと自分

 以前も書いたが、俺の今住む田舎にMという街がある。

 周辺部を含めて地方にしては知的文化的と、外から来た者達に思われる街だ。

 住む人々もそれを自負しているところがある。地域の出身者には、学者やジャーナリスト、出版人が多いという。

 実際人々も、先進的なことが好きだ。東京などから人を招いて、シンポジウムや音楽会などをよく開く。

 俺は、毎度そこに行って感じることがある。ああまた値踏みされてるな。肩書きなどは当然気にしてくる。正直に言えばろくなことは無い。俺の場合。

 別れ際の悪さも、この地域の人々の特色だと振り返って思う。手のひらを返すところがある。一度ならず、二度三度味わった。

 この歳になれば、この種の人々の心の仕組みはよく分かる。社会的なもので出来上がっているということ。「良心」までも。学者やジャーナリスト、出版人のたぐいが多いのも分かる。定義されたものが好きなのだ。日常も、その範囲で物事を漁る。

 自分とは何か。似た体質の田舎に育った俺の、今に至るまでの主題だ。好んでテーマとした訳では無かったが、何をしても考えても結局はそこに行き着く。些細な商売の時も。

 自分というのは、この社会的なものからの解放じゃないかと俺は思っている。どんなに良心的でも正義でも先進的でも、そこに発するものはどうにも嘘臭い。経験的、直観的にそう思う。

 人の心は当然、後天的なものによっても成り立つ。割合からすればずっとその方が多いだろう。

 何が先天的か後天的かの境界も、実ははっきりしない。だから差別的な意識を含めてこの種のものを一掃するなど、社会においても個人の内側でも夢物語だろうと俺は思っている。

 それでもできることはある。社会的なものを支点としない心。これを探ることは出来る。そこに自分を置くことは可能だ。実体は曖昧模糊としたものだとしても。

 これは知的な作業も含む気はするが、人は案外普通にやっていると経験的に感じている。日々の生活の中で。そうして真贋を見抜いている。何気ない暮らしや仕事や会話の中で。そう意識することも無く。なんか変だよねえ、ぐらいに。肩の力を抜いたものほど“怖い”ものは無い。

 田舎に舞い戻った俺はまた、そういう田舎に接した。嫁さんの故郷を含めて。それは俺が良かったと思うことの一つだ。