知識人という名の小心と上げ底の構造 ―何に根を置くか―

 俺はインテリを気取る者達からひでえ目…ってより死ぬほどがっかりする目にあったことが何度もある。

 その一つが、先日も書いたムービーニュースのカメラマン時代の出来事。ある時、やる気があると見た若手記者と仕事した時のこと。事件現場のレポートの仕方を、カメラマンとして俺は提案し実行した。それは局内で大受けだった(視聴者も面白かったと思う)。だが次回から記者は、俺に一切取材の事前情報を出さなくなった。これをやられたら画作りもへったくれも無くなる。唯々諾々と撮るしか無いのだ。

 この手の体質が嫌で俺はサラリーマンを辞めた。辞めたところで同じ体質の娑婆では、これでもかという位同じ目に遭う。食い扶持の一つ、雑文書きでも同じことが起きる。ある時納品先の社員が、善意で言ったんだろう、あなたの文を署名入りで出すように進言しましたと俺に伝えた。ありがとうと言ったが、結局潰れた。サラリーマンの経験から、潰れた理由はよく分かる。善意の社員も、その種の事項には二度と触れなくなった。タブーなのだ。垣根をいじくり回すのは。

 知識人は小心。これは、この国に根付いた科挙の制度(学歴、入社・資格試験等々)とは別の窓口からその手の世界に足を踏み入れた者が、骨身に沁みる実感だと俺は思っている。「東京文壇の小心、男の嫉妬は怖い」。北海道が足場の作家・三浦綾子と和歌山出身のおのぼり・有吉佐和子は、まるで別の機会にまったく同じ事を言った。

 インテリ達は、実はよく知っているのだ。自分達の足場がなんぼのもんかを。だから必死ですがり付く。科挙学歴のたぐいが生む既得権に。この構造で成り立つ東京圏はとりわけ。ほとんどの田舎もまた金太郎飴。

 この種のことの暴露や批判はきっちりやらなきゃいかんと思うが、本当に大事なことは次のことだと、これも骨身に沁みて思う。何に根を置くかということ。こいつがはっきり身に沁み込めば、知識というのは役に立つ。構造になんかすがらなくても。

 自分は自分。それとイコールの人民性。実存というワームホールの彼方に垣間見る普遍。生物としてのヒト。自然人を想定したルソーの気持ちがよく分かる。同じこと感じてたんだろう。多分。



 共鳴共感、義理人情、人の並立、人民民主の共和制万歳。一人ひとりに根を置くインターナショナリズム万歳。


(付記)
 以下はある所に先日書いたコメントの再録(一部加筆。再録上不要なものは削除した)。引用御容赦。


 いわゆるジャーナリズムを含めたこの国の「知性」は、ほとんどの場で既得権とイコールというのは、私自身骨の髄から感じるところです。その原因は先日の記事の学校のあり方(単なる資格試験のための「知」)や、追随する社会(とりわけ都市社会)のメンタリティ、それを生み出したこの国の何かと根深く結び付いているように思えてなりません。
 学歴に根ざした「知」(とりわけ文系的知)の賞味期限はせいぜい数年、早ければ数ヶ月、数日というのは、社会に出て真っ当に汗した人たちの実感ではないでしょうか。それが学歴の名において固定化、既得権化する。特に企業ジャーナリズムのたぐいでは。(「下」と見る者が作ったものは、その時点で中身や真意を理解しようとしなくなる等々、この種の意識に基づく差別にはこっけいなほどのものがあるのは、私自身経験したところです)。こういうものをおかしいと声を上げることは、当たり前のものを当たり前にするという点で、理想論とは違うように感じています。組織社会の多くが、これでガチガチに凝り固まっていたとしても。(社会の)泥舟化の原因は、かなりの部分そこにあるのではないかというのが、私なりの経験的な実感ということでした。
 「俺はこう思う。こうする」。それは言いつつ、人を変えようという性根は棄てる。これが変革にとっても、一番の力じゃないかと感じるものです。