雑感・ネット日記

 インターネットの書き物は、十年前くらいまでのものが断然面白かった気がする。

 素直というか無邪気な期待というか、干からびた日常以上のものがある訳が無いのは分かっていても、初めの時代のわくわく感みたいなものはあったんだろう。

 俺はその頃はまだ、親指シフトの日本語入力というワープロで仕事していたので、不便この上ないと見た欧米支配のキーボードに切り替えられないでいた。金が無いのもあったが。

 今考えても、なんでこんな不便な、まともな言葉に変換しにくいパソコンなんかで日本語を書かなきゃならんのか分からない。分からなくても、親指シフトの会社は使う側など一切無視して便利と散々宣伝したキーボードをさっさと廃止。俺も書き仕事を廃業したのを期にワープロをパソコンに換えてネットに加入し、不便この上ないキーボードを使うようになった。2003年のことだ。

 その頃はもう、面白いといえる記事はたいてい過去のものになっていた気がする。現役で面白いことを書く者はいるにはいたが、かなり少なくなりつつあるというのが印象だった。この傾向は2005年頃を境に、さらに顕著になったのではないか。ちなみに自前のホームページを作る気力などまるで無かった俺が、お手軽ブログに首を突っ込んだのは2006年。人のことは言えねえ。

 先日、古いホームページの主の2001年の日記を読んでみた。今は半分死んでるホームページだが、その頃のものは共鳴するしない以前に面白い。頭でっかちなりに体当たりで、閉じこもることなく書いてたからだろう。若かったというのも、もち論あるんだろうが。

 俺はといえば、始めた時期が時期。どこもかしこもすでにタコ壷型、お仲間同士の狎れあいブログやホームページになっていた。パターンというのがあって、その種の場所には大抵親衛隊みたいなのがいる。そいつが管理者の意を挺して、お追従(ついしょうと読むんだぜ)以外の書き込みを攻撃する。

 この手のお追従に乗らない管理者もいたが、やりとりに先に飽きるのは俺の方だった。認識ばかりを披露し合ったってしょうがねえやみたいなのが働いて、長くて1〜2ヵ月で関わる気は失せる。ブログを始めて間もなくそう感じて人の所に首突っ込むのは止め、この頃思い直して又やってみたが結果は同じ。こらえ性が無いということだろう。俺の方に。人は人ということに尽きる。当たり前だが。

 それでも稀に気になる日記というのはある。あるけど又関わると、同じ繰り返しになるに決まってるから、たまに黙って見る程度にしている。このまんま行かねえ方がいいのになあ…。仮にそんなこと感じたところで、どうできるわけではない。それを腹に収めて読むしかない。立ち寄る時は。

 日記はやっぱりひとり言だ。読み手をまるで意識しなきゃ、ネットでなんか書くわきゃねえが。自分を表すということ。どこまで行っても。10年前の誰かの日記に、それは表現じゃない、表出だとか書いてあったが、まあそんなもんだろう。言葉にそれほどこだわる話でもない。感じたことを言えばいいということ。

 俺は商売上の書き言葉も、そんなもんだろうと思っている。基本、原則、鉄則として。感じねえもんなんて、書けるわけねえもんね。どんなに食い詰めても。