自分の何を信じるか?

 自分の何を信じるか?

 これは俺の長年の認識の課題であり、実践の課題だった。

 頭では無く体(生きる主体)を信じる。それが醸成する感性と体感を信じる。

 それに拠って初めて、頭(獲得された知識)のたぐいも使い道が生まれる。

 それを俺は、小学生の頃には直観していた。(真っ当な感性の餓鬼は、皆そんなもんだったと思う。)

 制度としての家や魂の監獄としての学校の中で、その種の俺は自信を喪失して行った。

 田舎のいわゆる進学校時代、典型的な体育教師の担任は、まるでやる気の無い俺を「立派な親に似ない馬鹿」と罵ったが、そう、俺は馬鹿そのものだった。制度や監獄に飼育される生き物として。

 東京おのぼりの学生時代。その頃はいわゆる学生運動の時代だった。垣間見た俺はそれにも失望した。民衆を見下ろす活動家達。彼らは例外無く、アタマがたまたま左方向へ行っただけの、上昇志向の偏差値エリートの一変種に過ぎなかった。目の前の現実を体感や感性で受け止めるものがあれば、その種の発想には死んでもならない。嘲りや懐疑は自分に向かうからだ。

 東京に嫌気がさした俺は7年間、大阪でサラリーマン暮らしをした。そこ(の組織社会)にも嫌気がさして、妻と二人の子を連れて田舎に戻った。

 唐突に、のこのこと田舎に戻った俺は馬鹿そのものだった。親は「お前は失敗した。近所を歩くな」と言い、親を鵜呑みにする近所の者達は、俺を白眼視した。兄弟達は全員、あいつはもう駄目だと公言した。組織に居座ることを覚え、批評ばかりを身に着けた同年代の者たちは、後を追って来てまで俺に言葉のつぶてを投げつけた。どれも誇張や比喩では無い。

 その後も俺は、辛うじて馬鹿を通した。馬鹿を通すことの難しさ。こいつは今でも痛感する。時々頭が悧巧に走るからだ。馬鹿そのものの人生の中で。

 悧巧な自分=飼い馴らされた頭が基盤の自分を放逐すること。この挌闘は、いい歳をした今でも続く。

 方法はひとつ。生きる主体としての我が身を、蓄積された我が感性を、力を信じること。馬鹿を辛うじて通した人生の中で。

 俺が馬鹿を徹して通したならば、嫁さんも子供たちも泣かすことはなかったろう。馬鹿は温和でなければならない。とりわけ、大事な者との関わりの中では。