中産階級的サラリーマン思想としてのリベラリズムの敗北 ―大阪の選挙―

 忙しいので手短に。

 生きることに何の責任も持ち合わせない、支配に迎合のチンピラ男を選んだ大阪の選挙は、一つは中産階級サラリーマンの思想としてのリベラリズムの敗北だと俺は思っている。対抗馬が悪すぎた。

 平松という人物は、今で言うマスゴミ世界の出。

 その世界じゃ良心的人物だったんだろう。

 俺はこの世界の良心というのは、まるで信用しない。自分じゃ何もしない、評論家の精神に過ぎないからだ。

 この種の良心は、良心的に悩む暇も金もある彼らの立場を脅かす者を、本能的に(というより確信的・意識的に)排除する心性を持ち合わせている。

 俺はその昔、その種の良心的な者達の逆鱗に触れ、陰湿に追い落とされた経験がある。辞めた後も追いかけてきて。せめて自分に正直にというリベラリズムの、それも随分基本的な事項を実行しようとしただけなのだが。

 これは平松という男がいたのと同じ職場の話。彼とは何の関わりも無かったが。

 だがこの男も、何もしないことが存在根拠の雇われサラリーマンの良心・リベラリズムの世界に浸って生きてきたことはよく分かる。でなければ、そんな所に定年近くまで居られる訳がないからだ。他人共に何をされた以前の主体的な意味合いにおいて。

 橋本という男も、マスゴミ世界でのし上がった男。マスゴミ的手法(空っぽの自己宣伝)を駆使して。この点じゃ目くそ鼻くそ。

 橋本が受けたのは、本音を嗅ぎ取る民衆達が、この種のリベラリズム(非行動と嘘臭さ)にうんざりしたからだろう。橋本や東京都知事の石原などのスタンドプレーは、これを逆手に取っただけのこと。

 なので目くそ鼻くそなのだが、統治や支配のチキンレースを「やるぞやるぞ」というポーズが売りなのは、何もしないリベラリズムよりも遥かに始末が悪い。

 この種の馬鹿達は、いつか引き金を引くしかなくなる。空っぽな自分をそうで無いかのごとく見せかけるために。

 人生に対し、真っ当な何ものも持ち合わせない者達の自己証明。生じるのは毎度いつか来た道の、人間性もへったくれも無い空っぽの破局だ。

 俺が今も大阪府民だったら、こんな馬鹿達には絶対に投票しなかった。サラリーマンリベラリズムの嘘臭さにどんなに腹が立っても。しなくていいことをやる者達よりも何もしない者達の方が、あかの他人には少しはましだからだ。馬鹿げた話だが。

 別のものを作るしか無いということ。一人ひとりが主体的に。どんなに時間がかかってもだ。