人ひとり生きる源

 俺の昔の経験では、東北人というのは身近なものに対しては猛烈な嫉妬心や闘争心、批判精神を抱くが、雲の上と見るものに対しては羊という印象。

 ガンバロウ福島みたいな情緒に流れた運動を見ると、どうにも思い出してしまう。個々の疑問や心情はもぐら叩きのように叩いといて、さあ! がんばんべえ、みんなで。不合理だろうが何だろうが。

 彼らに典型的に出るだけで、日本人一般の属性もそんなもんといえばそんなもんなんだろう。「食べて応援」なんてね。

 民族主義にしろなんにしろ、何かの布団に包まりたいという心情に流れる集団は、地球上のどこもそんなもんなんだろうと思う。一昔前のセルビアなんてそんな感じだった。本音は今もそうなのかも知れねえなと思う。それほど根深いのだ。集団主義的な心性は。

 これを利用する者は、一時はうまく行く。十年、二十年の単位では必ず失敗する。破局的な結末で。

 理屈は簡単。その種の思想―というより心情には、共通項となるべき「人間(一人ひとりの暮らしの事情)」を救い出す要素がないので、内に対しても外に対しても、敵と見る者達との妥協や話し合いの素地は生まれようがない。行く所まで行って目が覚めるしかないのだ。生きていればの話だが。これがファシズム

 半端な善人は右顧左べん、誰にもいい顔して右往左往するだけだから、何んにも変えられない。だったらこの際誰でもいい。にっちもさっちも行かない世の中を、ハンマーでぶっ壊してくれ。ファシズムはここに生まれる。

 俺は長年、いろんな歴史や個人史を扱ってきた。生身の人間からの聞き取りを中心に。20〜25年ぐらい前までは、敗戦直後に仕事を起こした者達や、それらの男(女)を直接知る者達がまだ結構生きていた。

 彼らに共通の心性はと言えば、裸一貫とはよく言ったもの。さっぱりさばさば。底抜けの青空の下、自分の感性、心情でものを感じ、意欲を燃やして生き抜いた。当時も当然普通にいた規制の官僚、宦官共を蹴散らして。自分の力をストレートに信じて。

 彼らに感じたのは、何でも始めは自分ということ。始めるのは自分ということ。妨害は必ずある。それがどうした。わが人生のために。

 彼らはおおむね乱暴でわがままで自分勝手な親父達だったが、人情はあった。汗水たらして生きる者への共感、体当たりの人生への共鳴。敵であっても。歳と共に甘さは出たが。(蛇足だが、これに付けこむのが二世三世、宦官サラリーマン共というのも俺の印象だ。)

 どんな時も人を当てにしねえこと。自分の直観、感性を信じて生き抜くこと。人情は忘れねえこと(というよりも人情はそこに生まれる。まともに自分が生きる中で)。これは敗戦直後だろうが何だろうが少しも変わらない、生きることの真実だと俺は思っている。

 これが共和制(ヘンな神を戴かない真っ当な契約社会)の根底だと俺は思っている。人ひとり、すがらず頼らず生き抜く。これは知性以前のものであり、真っ当な知性の母胎でもあると俺は思っている。宦官共が付けこみすり寄る、うじうじ、げじげじの仲間意識なんざ、糞くらえなのだ。



 共鳴共感、人はそれぞれ造物主の共和制万歳。一人ひとりに根を置くインターナショナリズム万歳。