特権的知、特権的表現の解体の時代

 インターネットと関わるようになって、本当に良かったと思うことがある。

 それは普通の人が書いたものの方が、作家やマスコミなど職業的なもの書きが書いたものよりも面白いものが多いという、いわゆる無名の人々の手記を読んで感じた俺の実感が、当たり前の事実として証明されつつあることだ。

 「面白い」はあやふやな言い方だからもう少し論理的に言うと、こんなことだろう。単純に愉快、思い込みや建前に基づかず事実や体験、感性に素直に基づいている、表現として味わい深い(共鳴できる)、等々。

 ネットはもちろん玉石混淆だから、探し当てる手間は要る。だがほとんど石ころばかりと言っていいマスコミや職業的作家、ライターのものと比べれば、面白いものははるかに見つけやすい。

 経験的に見て、プロとアマの違いのほとんどは、慣れを含めた技法的要素の違いに過ぎない。実際、本当に面白い文章は、誤字脱字があろうが言葉足らずだろうが、起承転結のたぐいが乱雑だろうが面白い。この頃では歌でもそのようなものを見つける。いわゆる素人さんの歌。技法は下手だが、情感を素直に込めたもの等々。

 ちなみに技法は下手と言っても、その差は大幅に無くなりつつあり、時には逆転している。諸々の技術革新も後押ししているのだろう。誰にも扱えるものとして。

 何度も書いてきたことだが、いわゆるプロの世界のほとんどは共同主観・共同幻想(平たく言えば思い込み)の上に成り立って来た。どの世界にもその認証を受ける関門が必ずあり、その上に成り立つ手本や師匠のたぐいが意識無意識に存在し、追従者達はそれに照らして事柄を拾い事実を拾い、思考を組み立てて物事を表現する。その意味の修練、熟達の世界がいわゆるプロの世界なのは、作家もマスコミも歌も、その他諸々の技芸も(科学技術の世界でさえも)大差無かったように思う。

 時間が無いので結論を言えば、この種の共同主観、思い込みの世界を支えてきたのは、えげつない言い方だが金だ。権威に金が付随するからまぶしく見える。食えるから、食える以上の金が転がり込むから人は努力する。共同主観的な努力を。そうして人々は肝心かなめな自分の根っこを見失って、その世界で「熟達」を遂げる。何のことは無い。世に普通に転がっているサラリーマン世界そのものなのだ。

 こういう世界を拒むと、目の前にはみじめな世界しか広がらない。総てにおいて家元的、科挙的、学歴的世界が広がるこの国においては。単純に、食えないということ。支配者の側は、ここをきっちり押さえておけば、総てをコントロールできる。ちょろいものなのだ。技芸なんてもんは。

 時間が無いから、最後の結論。それでもやる人々は、新しいものを作る。自分に、人間性に真っ当に根ざしたものを。

 表す世界はひとまず生まれた。ネットという場に。またぞろ潰される可能性はあるにしても。だが一度開かれたものは、そのまま元に戻ることは無くなる。地球の方が回っている。これを知ってしまった後は。

 体当たりの努力を、情熱を注ぐのは、ほんまもんの根性入れてやるのは、この世界なのだ。自分に素直な、正直な世界。貧乏こいても絞り出す価値はあるさ。誰にも。