共和制と労働

 長年感じてきたことだが、人の体の中には摂理がある。生きるための摂理。

 体のいい理由付けや観念(頭でこねたもの)。これらを一切排したもの。純感性的なもの。

 それは神だ。恐らくは、宇宙の真理につながるワームホールからにじみ出す、普遍的な神だ。

 神は俺にはっきりと言う。「私のことは、自分でつかみ取らなきゃ駄目だぜ。お前自身が流す汗の中で」。

 労働は、こういうものだと俺は思っている。

 人間一人ひとりにとっての労働。それぞれの、それぞれのための労働。これこそ賭けるに値するものだ。人生を。

 そうなのであれば、外見は一切問わない。それがどのような労働だったとしても。

 人の連帯の根源は、ここにあると俺は思っている。摂理に素直に、真っ当に働くことへの共鳴、共感。

 多分だが、青年マルクスの夢想もここにあったのだろう。ドイツ職人労働の魂。

 「労働疎外」という言葉は、想起できなかったろう。働くことの真の意味に、想像も及ばない者には。

 マルクスはその後観念に、理論に走った。そのマルクスを批判できるのは、真っ当に、素直に、摂理に対して正直に日々汗を流すことのできる者のみだ。願わくは、家庭の温かみを棄て去ること無く。

 妻を、子供を飢えさせてはいけない。どんなに打ち込んでも。どんなに桎梏となっても。(それが俺の人生の最大の後悔、反省点だ。)

 労働。共和制の魂の本質は、ここにある。