この国の知性なるものの嘘 (あるブログへのコメント その2)

 若い頃に2年ほど、もう潰れた地方の出版社にいたことがあります。そこはいわば羊頭狗肉の府でした。書き手の自負心と射幸心を煽り、自費出版を勧める。「費用の半分はうちが出します。1000部作り、500部は著者のあなたに納品し、500部はうちが売って元を取ります。増し刷りすればそこからは印税があなたに入ります」が常套のやり口でした。そこの出版社は1000部の制作代までは、実は書き手の出す自費出版経費でまかなっていました。(印刷代などは案外わからんものです)。もうけはろくに無いが、持ち出しにはならない。これが「うちも一肌脱ぎます」の出版社のやり方でした。問題なのは、こんなやり方では著者から大金は取れませんから、出版社として肝心要の編集機能(出版社としての創作的要素)も、宣伝費もろくに使えないわけです。(出版社は、自費出版本が売れるわけが無いのはよく知っていますし、売れると匂えば編集経費は幾分は投じるなど、扱いは変わります。) なぜこんなことをするのかと言えば、一つは彼ら出版人が「文化」と仰ぐ先生方の本を出版する経費を捻出するため。もう一つは印刷代を印刷屋に払う自転車操業の費用の捻出。こんな仕組みでは、ピンはねできる額もたかが知れていますが。こんな馬鹿げたやり方をなぜするのかといえば、出版人なる人々の得体の知れない自負心のせいだったとしか言いようがありません。騙しのやり口で金を取り、さりとて儲かりもしない自転車操業。それを支える根拠不明な自負心。長年勤めて辞めた者が「あそこはオウム真理教と同じだった」と述懐していましたが、人の扱いの手練手管を含めて、さもありなんでした。「知」(文化でもいいです)なるものに対する、いわば共同幻想で成り立っているわけです。使う側も使われる側も。「それに関わる」「関わりたい」という“純心”。これほど始末に悪いものは無いのは、社会を真っ当に生きればすぐに気が付くのですが、その種の幻想から出られない、出たくないのがこの種の人々でした。「オウム真理教だった」と言った御仁も、またぞろ別の真理教(出版社)を作り似た手口を繰り返すわけですから、面白いものです。こんなことを長々書いたのは、この種の体質、幻想は一田舎出版社に限ったことではない、これもいっ時関わったマスコミ的「知性」も、中央なる場を含めてまるで変わらないのだろうという思いからでした。(マスコミは一応お金になって来ましたから、商売的にはこの種のやり口はとらないだけでしょう。)自分からは汗をかかない、かきたくない、作らない。だから創造、発見の意味すらつかめない。つかめないからまともな事実が見えない。見ても知らぬふりをする。踏み出すのが怖くて。踏み出す者を見ると、嫉妬心やら本能やらで徹底的に叩き始める。これがこの国が明治以降培ってきた「知」(のピラミッド)の実体だろうというのは、私の長年の体験的な思いでもあります。この種の虚構は、原発事故をめぐる一連の出来事(情報隠しや開き直り等々)と同質だろうというのも長年の実感ですので、あえて記させて戴きました。