橋下徹とチンピラ学園国家と宗教改革

 橋下徹の名前を目にしていたら、久しぶりにチンピラ学園国家というのを思い出した。

 グレたパ〜なチンピラ共がなぜか応援団に入り、この手のクズを取り締まはずの生徒補導の教員とつるんで羊のごとき生徒達を締め上げ、竹刀を持って校歌を強制。愛校心を鼓舞する図。

 俺たちどんなにクズ野郎でも、愛校心は人一倍。その証拠に、すべてを愛で包んでくれる無謬の学校長様にはひざまずきます。それで日々の羊達への脅し、ゆすり、強姦はチャラ。

 この手の構図は中世ヨーロッパにもあり、そのシンボルが免罪符。あまりの嘘くささにルター、カルヴァン宗教改革を起こした。

 原発に関する情報隠し、居直り、民衆への無責任の根源には、この種の無謬性の虚構と免罪符でチャラの構造があると書いた者がいた。その通り。

 宗教改革は必要だ。何百年遅れているなんて、どうでもいい。必要なものは必要。嘘っぱちの無謬性とそのシンボルは無しにして、一人ひとりの良心に根を置く政治社会体制は、腐り果てたこの国には必須と俺は思っている。

 良心も、制度となれば虚構に転化する危険は常にある。事実転化するだろう。国家が統治の要素を掲げる限り。

 大事なのは、あなた任せでは無くなるということ。人民・国民一人ひとりの責任において改革・イノベーションを続ければいいのだ。無責任の体系を断ち切るには、これが一番。統治の者達が口にしたがる片務契約の自己責任じゃない、真っ当な契約社会の権利と責任。

 頭の柔らかな、真の多様性社会の芽もここから生まれるだろう。

 共和制はいわゆるグローバリズムではない、インターナショナリズムと必然的につながる。一人ひとりと、一人ひとりの良心・魂と。

 教育ひとつとっても、明治手製のエリート主義、偏差値思想じゃ駄目ということ。(馬鹿だもんね、実際。娑婆の汗のかけらも知らないこの手の者達は。よくてせいぜい専門馬鹿に過ぎないことは、はっきり見抜かないと。刷り込みじゃない、汗して手にした経験論で。)

 いつまでたっても大和朝廷起源の統治史観じゃ、話にならない。回っているのは地球の方。とっくの昔に神学は敗れたこの地上で、多様な人々と真っ当に暮らそうと思えば。国家・民族のけちないがみ合いは捨てて。



 一人ひとりが創造者の共和制へ。一人ひとりに根を置くインターナショナリズムへ。