コミューンは人の側に

 コミューン(共同体・連帯)を国家に委ねたら、おしまいだ。

 スターリンソ連将軍様北朝鮮ヒトラー的ドイツ、天皇的日本、さらに遡ればジャコバン的フランス…。

 とっくの昔に結果は出ている。奴隷となり殺され、奉仕の末に見捨てられ、原野に野垂れ死に

 旧来の国家はその性質上、コミューンを統治にすり替える。すり寄った者、連帯を求めたお人好し達がどんな憂き目を見るかは、今更言うまでも無い。

 人民民衆の自立に根ざした共和制。それはすり替え的な国家論では無い。

 真っ当な労働、真っ当に汗を流す者同士の契約=自立(まともな大人なら当たり前の生き方)に根ざした連帯の社会。国家はその調整機関、サービス機構に過ぎない。

 国家は、頼りがい、頼られがいを装う父(母)権的仕組みでは無いということ。上昇の仕組みではもち論無い。

 そうすればすぐに分かるはずだ。どんなものにしたら良いか。教育制度も、国家と個人、国家と地域の関係も。

 自立と契約は、空念仏・餓鬼のお守りの呪文では無い。これをはっきりさせておけば良い。



 久しぶりに。共鳴共感、人は並立、人はそれぞれ創造主の共和制へ。一人ひとりに根を置くインターナショナリズムへ。