ファシズム、その経験的考察

 ファシズムってえと狂熱的なものという思い込みがかつてはあったが、どうやらそうじゃねえなと気が付いたのは、10年ほど前にある旧制中学の教務日誌を読んだ時のこと。前にも触れたことがあるが、1920年(大正9年)から1945年(昭和20年)まで読み通した。

 昭和に入っていわゆる満州事変の頃までは、この先どうなるだろうかという不安やハラハラドキドキみたいなのが読み取れた。

 それが1936年(昭和11年)のニ・二六事件の頃から記述は事務的になる。「皇居遥拝」だの「教練」だの事実のみが書かれるだけで、書き手の思いの部分は欠落していく。流れがそうなのだ。書き手は何年かごとに変わるはずなのだが。検閲を気にする中身でもないのだが。

 事務的な記述は敗戦まで続く。

 鈍感、無感情、精神・魂の劣化。こんなところじゃなかったかと俺は思っている。

 ひるがえって、俺のある仕事。現場じゃ支持されつつある印象だが、首は近いというのが実感。上がりが不足ということ。単純に。管理の側が、統計でしか見ていないのがよく分かる。

 税理士、会計士、経理マンが仕事を仕切る。経営者が経理マンになる。手に取るように分かるので、成り行きに任せている。

 手を抜けば、数は簡単に上がる。

 手を抜く「最良」の方法は、「でき合い」を積み重ねること。相手も気にせず、こっちも悩まず、頭も使わずノルマに達する。達するどころか付加金だってもらえるだろう。数に対しての。いくらもいる。それをする者は。

 要領が悪いということ。それをしねえのは。やろうとしても、なぜかできない。毎度勝手に膨れていく。中身が。時間も疲労もそれに否応無く比例する。

 それが仕事だなんて言ったって始まらねえ。始まらねえところで生きている。上がりだけで食うことしか思わねえ者達は。空っぽ。がらんどうということ。

 がらんどうでも、潰れるまで飯は食える。そこに居る者、合わせる者は。今時、どこにもある風景。数字に従順、指示に従順。

 狂熱。それはインサイダーじゃない、部外者に必要な態度。ファシズムの。

 必死こいて生きるしかねえさ。体当たりしか能のねえ者は。死ぬまで。



(付記)

 そういやアウシュビッツの所長だったか、柔和でやさしく、淡々と処理したと誰かが言ってた気がする。

 柔和なやさ男は今どきほんと、あちこちに居る。