権力史観に拠らない自立のモラルを

 くたびれ果ててぼけっとテレビをつけたら、国営放送は徳川綱吉とそのお袋の話を流していた。

 ひでえもんだ。

 宮仕えの観念しか持ち合わせねえサラリーマン、サラリーウーマン(学校仕込みの良い子)達が、手前勝手な世界の中で身に着けた自負と懐古趣味の道徳心、人生論で番組を作る。視聴料という民衆から巻き上げた金で。

 縦社会というサルの檻の権力史観。統治の便宜の儒学由来の、欲望を糊塗して生真面目を装う封建道徳。

 この国この社会は、いまだ何一つ変わっちゃいないとはこのこと。

 民衆による民衆のための人権宣言、人間宣言、モラル宣言などただの一度も出たことのない、アタマの芯まで統治に染め上げられた、原爆原発(統治者共の欲望の果て)を何発くらっても目の覚めない腐れ社会。



 アンシャン・レジームを批判したって始まらない。それは期待(被支配)の裏返し。

 このことは、はっきりと自覚することだ。そして作ることだ。自前の新しいものを。

 その一つが自立のモラル。民衆自身の手による。

 ここではこれ以上は言わない。ヒントは映画に例えれば、民衆的な武士を描いた黒沢明ではない、民衆を描いた小津安二郎。あくまで例えだが。

 小津も黒沢も縦社会の旧道徳の中で育ち、その殻の中で生きた。だが突破口は小津。

 この世に生まれ、人を愛し子を育て、やがて死んで行く―。どこにもいる当たり前の民衆を描いた小津の中に、権力史観や儒学の似非道徳ではないものがある。自立と自治の民衆モラルに、人と社会の存続に至る道が。



 共鳴共感、人は並立、人それぞれ、人は誰でも造物主の共和制へ。一人ひとりに根を置くインターナショナリズムへ。