魂に根を置く

 三島由紀夫はかつて、経営側と闘って自立をめざす左翼労働運動を嘲笑う小説(『絹と明察』)を書いた。

 「吠えるがええ。お前らは今に俺の不在に気が付いて困り果て、泣きわめくだろう」(記憶なので言葉はまるで不正確)。

 家父長的ワンマン経営者にそう言わせた三島の左翼、労働運動への嘲笑は当たっている。意識という上部構造内のお遊戯として。

 三島の思考と行動も、左翼、労働運動(ついでに市民運動)の思考と行動も、対のものに過ぎない。お遊び=体制内遊戯という意味で。

 観念に軸足をおいて事を為している限り、どこまで行ってもそれは体制内のお遊戯で終わる。

 天皇万歳の三島の方が、親に餌もらいながら自立を気取る左翼、労働運動(ついでに市民運動)より、ちっとは正直な餓鬼んちょというだけ。

 この国の歴史がいつまで経っても千五、六百年前からしか始まらない訳が分かるかい? 日本列島でさえ一、ニ万年前には人がいたというのに。資料が無いなんて話じゃないさ。

 刷り込まれた観念、刷り込まれた統治史観、権力史観。この国の観念は、右だろうが左だろうが、全部が全部これに根を置いている。

 人はいつだってどこだって、同んなじなんだぜ。この世に生まれ、人を愛し働いて、子を産み育て死んで行く人間達は。

 何億年の命の歴史が育んだ人の本性。それは観念では無い感性に、無意識=魂の源に組み込まれている。

 この当たり前に根を置いて自分を感じ、人を感じ、物を感じ、観念なるものを読み返して、自前の生き方、自前の人生、自前の思想を作ることが大事なのだ。豚舎を飛び出したければ。



 共鳴共感、人は並立・人それぞれ、人は誰でも創造主の共和制へ。一人ひとりに根を置くインターナショナリズムへ。