吉本隆明

 吉本隆明が死んだという。

 制度以前の自分、自然の中から生まれ出た当たり前の自分に覚醒せよ。こう書こうと思っていたら。

 左翼や民主をかたる知的特権者の思想(虚構の中央集権の一亜種)の嘘を、左の側から戦後いち早く暴き出したのは、吉本隆明だった。

 その吉本も、東京(中央集権)という利権の分け合い、馴れ合い社会に結局は慣れ親しんで死んでいく。

 これを見ると、人は北風よりもぬるま湯の中で腐り果てて行くという思いが湧き出る。

 吉本が腐ったのは、1970年代後半から80年代にかけてだった。

 彼の本が売れなくなったこと、商業的もの書きの世界に娘が入って行ったこと、学生運動(青春のお遊び)に足を突っ込んだ者達が組織社会でそこそこ立ち回れるようになったこと。

 この辺が理由だったろうと思う。

 1980年前後、彼の支持者達が潮が引くように減っていく(本が売れなくなる)中、不安の心理を当時は親友の鮎川信夫にこぼしているのを読んだことがある。

 「あなた、詩を書きなさいよ」。この鮎川の一言は的を得ていたと今も感じる。自分の思いを、心の源流を掘り下げろということだろう。その後鮎川は彼とたもとを分かった。

 娘がデビューした時、村上龍などサブカルチャーだと傍流文学を批判した江藤淳が、娘をほめ出したのには違和感を感じた。結局は馴れ合いだなと。好敵手への友情などと言いくるめてみても。

 吉本はかつて江藤を、サラリーマンに例えれば事務屋の課長クラスと軽蔑・批判したことがあった。口は硬派の江藤の本質をうまく突いていると、俺は思った。

 おのぼり学生だった十八の頃、たまたま俺は江藤の講演を聴いたことがあった。ああこの男も結局は、食いっぱぐれは絶対にしない東京人…。そう感じたものだった。ぼんぼん学生が多い講演会で気が緩んだのだろう。江藤は就職難で右往左往した自分や文学仲間の話をペラペラしゃべった。

 吉本とは反対の側から戦後思想の虚妄を突いた江藤は、吉本と違い、組織社会にしっかりと足場を持っていた。講師や教授の肩書きで。その分思想は軽かった。

 1990年代だったか、江藤はテレビで作家協会だかの代表として、文学世界再興のため書店の売り場確保をと唱え、「文学は競争力が弱いので」と東販社員からあっさり断られた。吉本の娘をよいしょしたのも、この辺の人の好さ、というより甘さからだろうと俺は思っている。

 1987、8年頃、若山玄造(字は違うかも)というしゃべりのタレントがラジオで、吉本のことを知の巨人と紹介した。彼をかじった放送企業のサラリーマンか構成屋の台本をしゃべったのだろう。

 馴れ合い、ぬるま湯は人を確実に駄目にする。汗流すことを忘れれば。何かに俺は載っかっている。この事実を忘れれば。そして人は必ず忘れる。自分の生き方、本質と共に。

 少し前、吉本はこう言ったとか。原発を無くせば人はサルに戻る。

 老醜のぼけ老人。その時も書いたが、この言葉しか俺には浮かばなかった。

 Hasta Siempre。これはゲバラを送る中南米人達の言葉だが、吉本にこの言葉を使う気は俺にはもう無い。