主体の目覚まし時計としての知

 人に必要なのは、真理らしきものの周りを思わせぶりに漂う知性では無い。解釈と後付けに終始する御用の知者達のごとく。

 毎朝自分を直覚し、腹を決め生きる生活者、行動人の知性だ。

 目覚めのベルの役割。これが真っ当な知だ。

 この種の知は、思わせぶりに漂いはしない。説教師達のように。

 ストレートに本質に行く。主体の目覚まし時計として。

 西郷南洲にはそれがあった。若い頃の吉本隆明にも。若きマルクスにも。ガリレオコペルニクス等々、真っ当な科学者達にも。

 取り込んだり、たらし込んだりでは無い、主体の目覚しとしての知。これが極上の知だ。いつの時代も。



(付記)

 たらし込みはドブに棄てる。思考停止の仕組みはドブに棄てる。

 これが主体と主体の関係の上に成る共和制、俺の言う共和制だ。


 共鳴共感、人の情、人は並立、人それぞれ、人は誰でも創造主の共和制へ。一人ひとりに根を置くインターナショナリズムへ。