体で書くということ
頭で、考えて書くなら、書かない方がいい。
体で書くということ。湧き出るものを。
自分の蓄積になる(生き方につながる)文、自分に責任の取れる文。それは体で書くしかない。
感性や経験は、身体感覚として体内に蓄積している。ここに根を置いて、これとの交感の中で書くということ。自分の文なら。
これには体力が要る。気力が要る。時間も要る。そこから生じる現実との闘いも要る。
これを避けると、言われたから書きましたの提出レポートや、○×に迎合の答案にしかならない。
このしんどさを本当に知っている書き手に、同志に、編集屋に、本屋に出くわすことは、ついに無かった。俺の田舎では。
おのぼりしたところで、もっとひどかったろう。どこも一緒というヘンな確信が今ではある。
それでもなぜ俺が、この種の仕事を生き延びる手段の一つとしてやって来れたのか。
「おおそうだ、あんたよく書いてくれた」。この種の声に出くわすことが何度かあったからだ。
その種の声は、金にはつながらなかったが、それなりの確信にはつながった。ひとり善がりでは無いという―。自分の胸に、体に問うことが。
共鳴共感、義理人情、人は並立、人はそれぞれ、人は誰でも造物主の共和制へ。一人ひとりに根を置くインターナショナリズムへ。