コミューン。その根底は仕事と暮らしの感性、共鳴、人の情 ―自由民権考―
人は並立、自立の場。それがコミューンだ。
コミューン。それは学生や教養人好みの、頭でっかちの連帯の場では無い。
それぞれ人が地に足つけて生きる世界。汗を流す世界。そこにおいての連帯の場だ。
知識など無くても「おうそうだ! おらもそう思う」。そんな直感直観と共鳴、連帯、人情の場だ。
かつて偶然掘り当てた明治初期、田舎の雪国の民権運動。
田舎者達、百姓達は村の寺子屋に集い、ルソーを読んで共鳴した。「おうそうだ! おらもそう思う」。
彼らは彼らの感性で、直観で読み取ってそう叫んだ。教養深いセンセイが、壇の上からうやうやしく教えずとも。
本質的な思想の伝播。それはそういうものだ。彼らは自身の中に元々在ったもの、在ったが言葉にし得なかったもの。それをそこに読み取るのだ。直感直観で。
この種の直観・感性は当時、全国津々浦々に存在した。「天は人の上に人を作らず」の『学問のススメ』が、働く汗の創造力を説いた『西国立志編(自助論)』が、当時は人口3000万のこの国で共に100万部のベストセラーになったのは、その頃の人民庶民の心の在り処を示している。
自由民権の源流は、こうした庶民の感性だ。
刷り込まれたのでは無い、自らの魂の発露、日々潜在する思いの率直な発露。
その種の思いを醸成したのが文字通りの人民の海。海辺の、雪国の、山村の、日々の仕事と暮らしが生むコミューン(魂の共鳴と連帯の場)だ。
百数十年の周回遅れでもいい。彼方の時代に死んだ人々への共鳴の上に新たな民権を、自由を打ち立てる。
それが国権(権力者達の欲望)に押しつぶされたコミューンの人々=民衆への最大の供養だ。
我々が受け継ぐべきは、真っ当な汗が生み出す並立自立の魂の場、コミューンであり、それに根ざした共和の社会と政体だ。
百余年前の声を聴き、「おうそうだ! おらもそう思う」。それがコミューンの、共和の感性だ。
共鳴共感、義理人情、人は並立、人は誰でも創造主の共和制へ。一人ひとりに根を置くインターナショナリズムへ。
(付記)
例えば西郷南洲には、ゲバラにはその種の感性が在った。そう俺は思う。直感直観で。
(付記二)
当たり前だが、暮らしとは抽象的なものでは無い。
人を愛し、子を産み育て死んで行くそれぞれの人生のことだ。